2009/05/13

スラムドッグミリオネラ

本当のことが知りたくて、ドキュメンタリーばかりを観ていた時期があった。大学のころ。
テレビでみるドキュメンタリーやニュースからは知り得ない、つまり、メジャーメディアでは存在できない現実の切り取りがオフシアターで上映されるドキュメンタリーにはあった。
フォリピンのキドラッド・タヒミック監督の「虹のアルバム」や「僕は怒れる黄色」、10時間耐久の「shore」、天安門首謀者のインタビュー「天安門」・・・。
「天安門」の中のインタビューで首謀者の今はNYに住んでいる女性が、「暴動になることはわかっていた。」と答えてたこと。政治的大義はもちろんあったろうが、実際に状況があのようになったのはもっと個人的なこと、ほんのまだ若者の少人数の人間関係からくるささいなことによって引き起こされたのだ、と理解した。実際の天安門事件当時まだ小学生でことの真相なんてもちろんしらなかったし、今も不勉強なのでよくしらない。けれど、そんな小学生の私にまで届いた新聞の一面をにぎわす感じ、世間が注目せずにはいられなかった感じ、あの時にそのまんなかにいた人が今はNYにいて、そのように語ることと、あの時自宅のキッチンで新聞とテーブルと思春期の始まりみたいなところにいた私と、両者を別の時空からみてまるでつながったように感じれること、そういうのがなんというか、むずがゆく興奮した。

それからしばらくしたある時、2002年くらいだったかな。突然、ドキュメンタリーはもういいや、と思った。何をみてた時だったかな。タイトルやストーリーは覚えてないけれど、ドキュメンタリーの言葉に心をうたれなくなった。
反比例して、つくりもののお話のリアルさをどんどん享受できるようになった。

「スラムドッグミリオネラ」はインドのスラムで育った男の子がミリオネラになる話だけれど、インドのスラムのドキュメンタリーをみるよりもずっとリアル感を生成される。

なぜなんだろう。
ヒントは最近よんだ佐藤優と手島龍一の対談本にのってた言葉(最近ずっとひっかかってる)にあるんじゃないかと思う。謀略、情報操作のやりかたの一つとして、相手方にヒントを上手に与え、相手自身に物語を作らせる。人は自分の作った物語は信じやすいし、大事にする。そこを利用して情報を操作する。
もう一つのヒントは、webマガジンにあったYOUのインタビュー。「自分のことは自分ではあまり話しません。人に話してもらうとだいたいちょっといい風に言ってくれれるし、その方が気持ちいいから」ということ。二つは違うレベルの話なのだけれど、私にはなにかつながっている。

ライフログを記録できる世の中になったとして、その記録は本当に私そのものであるか、と言えば、否、なのである。
私たちの生は客観的記録ではない。数量でも計量でもない。
私たちの生はドキュメンタリー的というよりもむしろ、夢のエンターテイメント的なのだと思う。だから、映画がリアルなんだと思う。



ずいぶんと乱暴なまとめだけど(続きをかきたいんだけど)、今日はこんな風にしかかけない。今この瞬間能力が全然たりない。こんなこと、私だけが考えてることではなくて、いろんな人がいろんな分野でちゃんとした言葉で考えているはずだけど、その人たちに「そんなんだよね」と共有してもらえるような、また、うっすらと感じてる人に「こうじゃない?そんな気するよね?」と話せるような言葉が獲得できてない。

でも、書いちゃいたい。
そんな、今夜。

2009/05/11

カブのホワイトソース

バターを落としたお湯でカブを煮る。
やわらかくなったらミキシング。
作りおいてあったベシャメルソースの種、大さじ2くらいあったかな、
それを加えてゆっくりなじませる。
塩で調味する。
パスタを塩きつめでゆでる。
皿にあけて、香り役のオリーブオイルを少したらす。
その上からカブのソースを濾しながらかける。
胡椒を引く。

ありがとうのおいしさ。
冷えた白ワイン、かな。

2009/04/22

タケノコいっぽんちょーだいな

ま〜だ〜め〜が〜で〜ないよ


っていう遊び、あったよね?

今日は取手から昨日とったばかりのそれはそれはきれいなタケノコさんがうちに届きました。
毛がが生えた海老茶色の皮がつやつや、さきっちょの緑の芽は若々しくも力強くてこれぞ春色って感じの組み合わせ。渋くてつよくて柔らか。

同封してもらった糠でゆでて、さまして、夜にはいただく段取り。たくさんだからゆっくりいただくけど、まずは今夜。
はらへりなのでクリーム煮に決定。
タマネギのみじん切り、ベーコン、タケノコを炒めたら、生クリーム、ショートパスタに胡椒をごりごり、仕上げは生のオレガノをちぎって。ああ。。しあわせの味です。

2009/04/11

メモ

ボンガンドとバカピグミーの発話形式についての話を聞いた。

近代がない、と発言した人がいた。
乱暴なくくりではあるけれど、私たちのすむ世界との対比をしているのだから
言葉の好みの問題だったろう。
さて、私たちの世界はいったいなんなのか。
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分化、分節化した、ということ。
なぜ、アートや表現があるのか。なぜ?
サラリーマンをやっていると、映画はエンターテイメントハリウッドどたばたが欲しくなる。
スイーツ(笑)もちょっとそれににている。
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問いを発する人と問いを発せられる人(問いを受ける人)はもともと同一だった。
分化して、分かれた。
聞き手の膜が私たちの方が薄い。発話に対して無視することができない。
彼らは人の発話に対しての無視ができる。信用、ということも、真実、ということもない。
発話の価値が違う。
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私たちは分化したから、問いかけと答えを対で考えている。対には他者が必要だ。
問う人・問われる人、感じる人・感じない人、感じることを教える人・感じることを教えてもらう人。巫女のような人と巫女にお伺いをたてる人
アートを作る人とアートを見る人。
アートをやらない人がいるから、アートがある。
分化の末の必然として、私たちの世界全体のありよう(先生は共に在る感覚といった)
が形成されたからこそ、芸術、というものが今このように存在する。

洞窟画がなぜかかれたのか、というような芸術の起源とはまた別の話。
個の能力差を社会がどう位置づけていったのか、ということ。

そういうこと、の考えの片鱗のようなものを見たような日。
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このメモは備忘の為。
これもまたかなり乱暴な。

2009/04/01

無償ということ

相手の為だけを思って何かをすることは
相手に負担をかける。

相手の為に何かする場合、自分の為にもなるんだよ、という名目を勘定にいれてやると
相手は負担がなくなる。
相手の為というのを快く受けとってもらえる。

いままでこの仕組みを知らずに、
相手の為は単純に相手の為、であり、自分どうこうは含めないのが当たり前だった。
別に自分を押さえたり無理するという気持ちもなかった。

けど、なにかしてもらった時にその分のなにかを返せないことに人は耐えられない。
ただでやってもらったら人は心苦しく思うこともあるらしい。複雑な生き物だ。
だから、見返りの分まで考えてあげるのが人にやさしい。

おそらく無償が成り立つ、ということが私の一つの理想的ななにかであるのだが、しかし、それはもう少しつめて考えられるべきことなのだ。

2009/03/25

ゼラチンシルバーLOVE

ゼラチンシルバーLOVEの中で、永瀬正敏が食べていたあまりおいしくなさそうなミートソースが食べたくなって、帰りにスーパーで105円のカゴメミートソースのカンズメを買って帰る。

トマトとニンニク、バターを足したところで大して味は変わらないし、ミートのかけらがみつからないけどミート味のスパゲッティ。あつあつって所だけポイント。ナポリタンぽい。

映画は久々に眠ってしまいそうだった。
本やによって、多和田葉子の新刊と三砂ちづるの本と買う。多和田さんはよみたかったもの、でも今すぐよまないかもしれないもの、で、三砂さんは帰りの電車の中でにやにや(にっこり?きもい・・)しながら読みはじめました。

2009/03/17

俺があいつであいつがおれで

メモ:
よくある男女入れ替わり物語について。
筑波のロボットについて。
恩蔵さんの化粧研究について。
バーチャルリアリティ訓練後の自己像について。