2013/01/11

電話ではなく

とてもとても大切な友達がご懐妊されたという。
年賀状でなんとなく?と思ったのだけれどデリケートなことで聞き出せず、会いたいなってメールしてみた。
その返事もあいまいだったので思い切って聞いてみた。
そしたら、あったり〜!だって。

今まで妊娠、出産したどの友達よりも心にずどんときた。うれしく、そして世界が変わるんだっていう感じがした。

会うのは先でいい。
今まで大事なときは電話してたけど、今回は電話しようって思いつかなかった。
メールがいいときもある。
わたしにはわからないことだし、なにか彼女ともう一人の関係のことだし、それについてなにか、わたしは直接話したり声をきいたりするのが恥ずかしいような、遠慮してしまうような、自分の出る幕ではないような、そんな感じがして電話なんてとても、という気持ちになった。電話できない感じもっともリアルな感情のような気がして、ここに記す。

2012/12/19

なけてくる。今日は昼休みからずっとセンチメンタルだ。冬っぽいから。人と一対一で話すと、感情がきざまれる。Kさん、Oさん、それぞれにありがたい声援をいただきました。
なける。

(センチメンタルでこのエントリ、あとでけすかも。でもいまだけかいたい、どこかに)
会社の人と両国のポパイというクラフトビールのお店にいきました。
ご馳走になりました。
わたしは、お昼ご飯はいつも、この三年、ひとりでたべるようにしていて、それはみなさんわかっていてら声をかけられることもなく、気ままにさせてもらってます。
だから、仕事以外でたくさん話すこともないのですが、ほんとうにたまにこうして飲み会のときにすこしだけ、いつもより話します。
来月末で会社をやめる。
それでお誘いしてくださったのだとおもいます。とてもとても暖かい。わたしはこれを、おぼえていたいです。このあたたかさを。
日本という国のなりたち、経済のなりたち、社会のなりたち、わたしはわたしの人生しかいきられないけれど、見る場所がかわれば体験もかわる。それでたくさんの現場をみたようにおもいます。
現場というのは事件のおこっている現場ではなくて事件のおこっていない現場です。
たくさんのことを学びました。
人々がどのようにして生きているか、どのようにして経済をたちゆかせているか、その感じは、やはり本で読んだりテレビでみたりするのとはちがう繊細さだった。
ありがとうごさいました。

2012/12/15

今日はいろんな人から連絡がくる。

昨夜からおんぞうさんとメールしてたし、

iMacを修理に見送ったあと体調整える為にお風呂にはいってるあいだいろんなメールが届いてた。
普段はさっぱりなのにね。

こないだお手伝いさせてもらった本の編集者、
ともこちゃん、
まみ(小一のときからのともだち)
若い子(とわたしが呼んでる子)、
かずやん(これは私が問い合わせたから)

などなど、

なんだか一堂にかいして、という感がある。

そういえば明け方の夢は、ずーっとまえに亡くなった父方のおばあちゃんがでてきて、タッチパネルでなにやらiPadみたいなものを操作しているのだった。
父方の祖母の夢はあまりみたことがないので、なんだろう、今日みたいな特異日にぴったりだ。

体調がよくなかったので昼間は動かず、夜はこれまた何年かぶりに会うが明日には日本をたつ、外国人の友人とディナー。

どんな一日になるかな。

2012/11/16

迂回ルート

おはようございます。
朝から布団の中でiPhone手にして夏からの禁じ手のひとつをやぶりました。
ここで告白しておく。

でも目的地Aはちゃんととってある。

破った禁じ手のほうは、自分をためしたというようなところもある。
どんな気持ちがするかって。

古い友人が表す言葉の自分への影響に、三ヶ月前のある日やっとそれを完全に避けることを決意し、その人の書く言葉を読むのをやめていた。ということです。
これは中毒とか依存とか、そういうことにまつわる心理的な実験観察に使えると自分では思っています。

2012/10/30

おばあちゃん

おばあちゃん、元気ですか。
今どうしてますか。

さっきふと、「どこへいくんだからわからない」といって不安そうにしていたおばあちゃんの、本当に多分ちょうど一年前のおばあちゃんの様子を思い出して、わたし自分の今の状態がまさにそんな感じだなあ、って思ったよ。
おばあちゃんはどこかにいくのは知ってて、それがどこなのかどうやっていくのかまったく手がかりがなくてこわくて不安でどうしよう、っていう感じにはわたしには見えたの。でもここにとどまるわけにはいかないっていうこと、前にももどれないってこと。先にすすむしかない。お休みしててもいつかはね。
それで、11月にはいって、よしいこう、って決めたんだよね。すごくすごくつよくてえらくてわたしは感動したよ。少女のおばあちゃん。
今日ね、思い出したのは、わたしも今そうなの。会社やめてこの愛する家をでなきゃならないの。いつかはね。どこへいくんだか、どうやっていくんだかわからないの。でも、いくことは知ってるの。おばあちゃんどうやってその一歩をふみだしたの?
その先はどうだった?

死と生きる事がどれだけちがうんだろう。
生きる事の中にも死に似たものはたくさんあって、それは決していまわしいものではないように思ったよ。

わたしもおばあちゃんの決心でここをでるよ。
冒険だよ。
死は冒険のひとつのようにみせてくれたおばあちゃん。
生きてるあいだにその決心の練習してみるよ、わたし。

あと数時間でおばあちゃんの誕生日だよ。
おめでとう。98さい。


2012/10/28

おじょうさん

鼻に花びらがくっつくくらい、抱きかかえるように香ってみる。
この花の香りをなんとたとえたらよいのだろうか。
わたしはこの香りを覚えていられるだろうか。

わたしのとても大切な人がわたしのとても尊敬する人のところまでてくてく歩いてわたしの為に花を選んでくださいと言いにいったのだそうだ。尊敬する人の尊敬する仕事ぶりによって選ばれつつまれて、大切な人によってわたしの元に運ばれてきたその花の姿に、とてもおそるおそるではあるが自分の姿を重ねてみようと思いついたのは、そうやって大切な人がわたしを思ってくれることで起きたことやもたらされたものを十分にあじわい受け取るにはわたし自身がわたし自身についてもっとよい風に思ってあげないとなのかもしれない、という考えがかすかに発生したのを発見したからだ。

うぬぼれではなくって、自分を誇りに思うということはとてもとてもむずかしくてわたしはいい歳してそれが全然できない。でも、人から自分に向けられた祝福をうけとるときにその祝福が存分に作用するためには自分自身による祝福もまた必要なのかもしれない。自分で自分のことを祝福されるべきものと思っていなかったら相手の投げてくれた祝福は存分には発揮されないのかもしれない。そしてそれはやっぱり受け取りということに関してずさんで失礼である。そのことにようやく気がついたのである。なにごともちょっとずつである。

こくもうすくもないきみどり色にブルーの入ったところをむらさきの入ったところのある、全体としは一つのまとまりのある色調で、そして一つで森のようにこんもりしている。かたまりには厚みがあってゆたかだ。しおれているところもあれば瑞々しいところもある。ドライのように見えるけど今は水分も含んでいる。ドライになってももしかしたら色は保たれるかもしれない。花びらはとてもうすくて、紙のようだけれども触るとひんやりしっとりしており、香るとさわやかに甘い。

どんな自分になりたいか、

くだらないかもしれないけれども今の時代の私たちは(もしかしたらいつの時代のわたしたちも)考えるし、あこがれの像を頭においてそのようにすてきになりたいなどと考えるものである。はずかしながらわたしだって少女漫画的にそのようにかんがえる。

そのあこがれの位置ににこの花の姿を置いてみようと思う。
そんな風になりたいな、と思う事を許可してみようと思う。