32歳、最後の食事をたった今とったところ。
母がつくったカボチャスープだった。
土曜に作ったものだから本当は捨てようと思ってた。結局食べられなかったな、と。
けどさっきお腹が減って来て、おかしをたべようと思ったけどちがうなって思って、冷蔵庫からタッパーの蓋をあけて、鍋に移してミルクを少し足して火をつけた。
ほんのりやばいかな、という気配があるもののなんの、火を通せば大丈夫、だめなら残してもいいんだし。
沸騰させてあつあつのとこ、結局全部たいらげた。
甘いスープ。
どうやってつくったんだか、私の方がぜったいにおいしく作れるし、洗練されてないけど、やっぱり私はこういうのを愛情と呼ぶとしんじてるところがある。
母が愛情を込めている、という意味ではない。
私からみたら適当だし粗雑だなあと思うし、なんでそんな風にしちゃうんだろうと批判めいた目でみてしまうやり方も母にとってそれは普通で、どちらかと言えば丁寧にやってて、よくできたでしょう、みんなさあ食べるわよ!という勢いのもの。当たり前のこと。この中になぜか愛情がある。うれしくないのに、勝手に心があたたまっちゃう。まったく。おばあちゃんのコロッケも、おはぎも愛情。愛情はおいしいとは限らない。おいしくなくても嫌いと言って残してしまえない私の気持ちはその中の愛情に対しての礼儀、、、なのかなあ。愛情は才能に左右されない。うつくしくもないかもしれない。うちの母は繊細じゃないし、味のセンスもいまいちかもしれないけど、おいしいおふくろの味をつくるどこぞのお母様とやってることはちがわない。さて、この愛情は母の側にあるのか、私の側にあるのか。
と、考えて、間にあるもののような気がして来た。私も母も「わたしの愛情」というものは所有していなくて、私と母の間にあるのが愛情、なのかもしれない。これは今の今、思いついたこと。全然わからないけれど。別のもっとふさわしい言葉があるかもしれないな。
さて、書いてるうちに0時を回ったので、32週目無事終了です。33週目に突入です。
なにも思い浮かばない、いままでになくほうけている。
そうだ、日本に最初に英語が入って来たときに、loveは愛じゃなくって大切、って訳されたっていうのを最近どこかで読んだ。
大切、のあたらしい意味とか方法がわかる一年が、はじまりますように。こころから。私さんの為に。
2009/09/27
つくってもらったもの
友人がつくってくれたサラダのレシピを忘れないように書いておく。大切にしよう。
以下、食材を下ごしらえするごとに和えてゆく。
・トマトを湯向きして一口大に切る。
・クレソンを一口大に切る(茎も)。
・なすを丸のまま網で焼いて火が通ったら皮を剥き、一口大に切る。
・ニンニクを2ミリくらいに切って油で揚げる。
・ニンニクを取り出したフライパン(油が入っている)を熱して、お酢をジャッと入れる。ジャーっと言ってものすごく飛び跳ねるけれどひるまない。酢のすっぱさをここで飛ばしてしまう。そこに醤油、砂糖、塩を入れる。砂糖は結構入れてよい。このタレに牛肉の薄切りを一枚一枚いれてしゃぶしゃぶのようにさっと火をとして上記のまぜあわさったサラダの上にのっけていく。レアがよい。すき焼きの割り下でしゃぶしゃぶするイメージ。
・最後に、のこったタレをサラダ全体にまわしかける。
出来上がり。
以下、食材を下ごしらえするごとに和えてゆく。
・トマトを湯向きして一口大に切る。
・クレソンを一口大に切る(茎も)。
・なすを丸のまま網で焼いて火が通ったら皮を剥き、一口大に切る。
・ニンニクを2ミリくらいに切って油で揚げる。
・ニンニクを取り出したフライパン(油が入っている)を熱して、お酢をジャッと入れる。ジャーっと言ってものすごく飛び跳ねるけれどひるまない。酢のすっぱさをここで飛ばしてしまう。そこに醤油、砂糖、塩を入れる。砂糖は結構入れてよい。このタレに牛肉の薄切りを一枚一枚いれてしゃぶしゃぶのようにさっと火をとして上記のまぜあわさったサラダの上にのっけていく。レアがよい。すき焼きの割り下でしゃぶしゃぶするイメージ。
・最後に、のこったタレをサラダ全体にまわしかける。
出来上がり。
2009/09/25
見えざるもの。
よく、無意識を耕す、というけれど、それと関係しているかわからないけれど、
昨日よんだGINGERの佐藤優のページに、中世哲学の見えるものと見えざるものについて書いてあった。例えば、信頼というものは見えざるものである。佐藤優は犬と飼い主の関係を書いたが、どのような関係においても信頼という見えざるものは両者の心の中だけで勝手に形成されるものではなく、見えるもの(例えば言葉、行為)を通して形成されるのだろう、と思った。見えるものを使って見えざるものをたがやし、形をととのえてゆく。
私は見えるものをそのようにして使っていきたい。しかし、その欲求が強すぎるのだ。
人にもそれを求めてしまうけれど、人はいろいろで、時期や状況によってフェーズも違う。だから見えざるものが快適なベッドではなくなってしまったら、しばらくはその見えざるものを見なければいい。
見えざるものを凝視してはいけない。それは見えないのだから。
昨日よんだGINGERの佐藤優のページに、中世哲学の見えるものと見えざるものについて書いてあった。例えば、信頼というものは見えざるものである。佐藤優は犬と飼い主の関係を書いたが、どのような関係においても信頼という見えざるものは両者の心の中だけで勝手に形成されるものではなく、見えるもの(例えば言葉、行為)を通して形成されるのだろう、と思った。見えるものを使って見えざるものをたがやし、形をととのえてゆく。
私は見えるものをそのようにして使っていきたい。しかし、その欲求が強すぎるのだ。
人にもそれを求めてしまうけれど、人はいろいろで、時期や状況によってフェーズも違う。だから見えざるものが快適なベッドではなくなってしまったら、しばらくはその見えざるものを見なければいい。
見えざるものを凝視してはいけない。それは見えないのだから。
2009/09/20
旅から帰ってきたような
少しずつ離れていく感じ、少しずつ自分だけの生活に戻っていく感じ。
何かに似ていると思った。
例えば、海外旅行から帰ってきたときの感じ。
海外でお世話になった人たち。食事して、お酒を飲んで、散歩に連れて行ってもらって、知らない国での不安に寄り添ってくれた人たち。私には遠くに大切なものができた。人も風景も時間の流れ方も。けれども再びふれあうことはしばらくはない。もしかしたら、一生のうちにもう一度くらいは会えるかも、でも約束はしていない。途切れたわけじゃないし手紙だってメールだってだせばいい。遠くでかすかに、お互いをおもいつつ、今目の前にあるのはここでの生活。それを旅先の生活を比べて不幸とか幸福とか呼ぶことはない。ここでの光があって、あちらでの光がある。
そんな感じ。
長い長い旅から帰ってきたようなそんな感じに、
似ている。
何かに似ていると思った。
例えば、海外旅行から帰ってきたときの感じ。
海外でお世話になった人たち。食事して、お酒を飲んで、散歩に連れて行ってもらって、知らない国での不安に寄り添ってくれた人たち。私には遠くに大切なものができた。人も風景も時間の流れ方も。けれども再びふれあうことはしばらくはない。もしかしたら、一生のうちにもう一度くらいは会えるかも、でも約束はしていない。途切れたわけじゃないし手紙だってメールだってだせばいい。遠くでかすかに、お互いをおもいつつ、今目の前にあるのはここでの生活。それを旅先の生活を比べて不幸とか幸福とか呼ぶことはない。ここでの光があって、あちらでの光がある。
そんな感じ。
長い長い旅から帰ってきたようなそんな感じに、
似ている。
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