2012/08/30

ともこちゃんのみそ汁セット

あなたに足りないのはみそ汁な気がする。

とメールにあって、

だからみそ汁セット送ったから。


って。

そのメールは

わたしまたよけいな事しちゃった(>_<)

と始まってて、みそ汁セット(野菜を含む)と梨を送ったけど次の日届いてないならだめになってるから野菜はすててね!というところから、みそ汁が足りないという指摘に至るメールであった。


結局私が荷物を受け取ったのはそのメールをもらってから二日後で、たしかに葉物、枝豆、ぶどうはだめになってたので、ともこちゃんのいうとおりに捨てる事にする。ともこちゃんならこれは躊躇なく捨てるだろう、と思って、心をいためずに捨てるという行為を実践した。心をいためてすてたらともこちゃんに悪いから。それはともこちゃんの心情に反するから。

いりこだしと昆布だし、それから多分ともこちゃんがこないだ旅行にいってかったのではないか?と思われる三河の赤出し、そしてオクラとトマト一個、梨が手元に残った。
それから隙間をうめるため?のストールとボーダーのタンクトップ。

メールでは、いりこと昆布を水にいれて冷蔵庫にいれとくだけでだしがとれるし、簡単だからやりなさい、と書いてあった。

そこで、いりこを水に入れて冷蔵庫に置いたのが日曜。今日は木曜。
やっとこさみそ汁セットがみそ汁に。

オクラの味がすごくて、あー、みそ汁って具からもだしがでるんだった、とか、
このねばり、ジュンサイ並みじゃない??とか、感動しきりである。

トマトも切ってたべみたら本当にあまくって、なんじゃこりゃ?というかんじである。

野菜がおいしいってすごいなあ。
力を感じる。

赤出しもとてもとてもおいしい。

なんというか、がんばってみそ汁をつづけよう、そしたら私の身体はよくなるかも、と思った次第である。


2012/08/26

人のやっていること、自分と関係のない事象については見えているように思ってしまう。自分のこともこうやって見えないと、人のことを見えているように思うその思考力はなんにも役立ってないことになる。

2012/08/22

目的地A

今日で四日目だ。
8月19日に私は目的地Aを定めた。

目的地Aのネーミングは恩蔵さん。
名付けられたことで、これは形をもった。

目的地Aの正体はなんだかわからない。
今のところどういう風にめざせばいいのかだけはわかる。
毎日一歩ずつ歩く。

目的地Aを目指していても、Cにたどり着いてしまうこともあるという。
けれど、初めからCを目指さないし、Cなんて知らない。BだってDだってしらない。
Cなんてない。
あるのは今は、目的地Aだけ。Aが見えているわけではないのに、それはある。

この「目的地A」について考える。
できるんだろうか、そんなこと。
人生と作品。その習作のようでもある。

2012/08/13

かるくて大切なもの

部屋を吹き抜ける強風にまかせて眠りについていたらまた
青紫色のあじさいがいつのまにか窓からとんでいった
花瓶がもぬけの殻だった
2月15日の為に自分に買ったもの

こないだともこちゃんがうちにきて、とんでったスカートの話をした
 「この風の通りみちにかるくて大切なものをおいちゃいけないの」



かるくて大切なもの


って
 
なんかいーね

と、ともこちゃんがいった

2012/07/18

となりのおじさん

今朝、母からメールがきた。
実家のお隣のおじさんが7月16日に亡くなったのだという。
私はおじさんがだいすきだった。とはいえお隣の方だし、私が大学生になるころにはほとんどお会いすることもなかったので、だいすきだったというのは小学生のころの記憶だ。
私は千代の富士が好きだったのは、おじさんが少し千代の富士ににてたから、どちらを先にすきになったかはわからないけど、千代の富士を好きなようにおじさんもすきだった。(おじさんは太ってたわけではない。)
そのころプリンという名前の雑種の犬をお隣では飼っていて、うちの目の前にある用水路の土手もまだ舗装されておらず、プリンはいつもそこにいた。プリンのこともだいだいだいすきだった。プリンはやがて死んでしまって、それもその付近に毒餌がまかれたといううわさがたち、それ以降おとなりでは室内犬を飼い始めたのでわたしたちはお隣の犬との交流もなくなった。おじさんやおばさんとの交流もへっていって私たちは思春期を迎えておとなになり、お隣ではお孫さんが生まれていった。
おじさんは名のしれた動物園の園長だった。パンダの飼育をしてた。本も書いていた。いつだったか、昨年だったとおもうけれども、神保町の古書市でおじさんの書いた本をみつけて買おうか迷ったのだけど、断捨離中だったので買うのはやめてその場でよんだ。タツノオトシゴは受精後、オスが妊娠するような形になるということとか、キリンやカバの出産の話がかいてあった。パンダのあかちゃんでにぎわった事、おじさんの耳には入ってただろうか。
私がおじさんに最後にあったのは、もう、きっと何年も前。10年以上前かもしれない。人が生きてる事と、死ぬ事、その人の存在を知るのは、私の身体ではなくて頭なのだ。私はここのところ、おじさんの死とはべつに、おんぞうさんのいう「肉」問題を考えていた。「肉」の強さといったらなくて、私はそちらに引きずられるようにして生きている。こわいけど真実のような、なんというんだろう、それはいつでも「肉」を感じるということでもなく、でも少しでも「肉」を知るということが及ぼす影響。これって本当に無視できない。演劇やダンスの人たちの関わり方、身体のありかたが私とまったくちがうということも、そういう「肉」の秘密に関わる所がああるかもしれない。私は頭だけで考えがちなのだとそこでわかるのだ。「肉」をつかって考えることが私にもできるのだろうか。
そもそもここでいう「肉」が何をさすかを考えるとこからはじめないとならない。

2012/07/08

あなたさまへ

今日でお仕事が終わるあなたさま。
またしても、やりとげたあなたさま。
3か月でやるっていって、一人で計画たてて、その間の万障をやり繰りしながら、やってのけてしまうあなたさま。
書斎となった喫茶店に最後にてみやげをもっていくあなたさま。

目に浮かびます。

出来上がるものの形ではなくって、そのものが出来るまでに誰がどう動いたかってこと、例えば本なら木が育ってパルプになって製紙会社を通過して、印刷のインクがのってっていう道筋の中で、製版印刷技術や製紙技術や輸送システムの作られるっていうそれぞれの道筋の中で、遠い国で本を書く人がいてそれをこの国でも売りたいっていう道筋の中で、誰がどう動いたかってこと。だれもその全部は見る事ができないものだけど、実際にあったのだ。出来上がる形が出来上がっても出来上がらなくてもそれはあった。神様がみてるってのはそういうことなんだろう。

2012/07/01

秦野梅子さんたち