本当のことが知りたくて、ドキュメンタリーばかりを観ていた時期があった。大学のころ。
テレビでみるドキュメンタリーやニュースからは知り得ない、つまり、メジャーメディアでは存在できない現実の切り取りがオフシアターで上映されるドキュメンタリーにはあった。
フォリピンのキドラッド・タヒミック監督の「虹のアルバム」や「僕は怒れる黄色」、10時間耐久の「shore」、天安門首謀者のインタビュー「天安門」・・・。
「天安門」の中のインタビューで首謀者の今はNYに住んでいる女性が、「暴動になることはわかっていた。」と答えてたこと。政治的大義はもちろんあったろうが、実際に状況があのようになったのはもっと個人的なこと、ほんのまだ若者の少人数の人間関係からくるささいなことによって引き起こされたのだ、と理解した。実際の天安門事件当時まだ小学生でことの真相なんてもちろんしらなかったし、今も不勉強なのでよくしらない。けれど、そんな小学生の私にまで届いた新聞の一面をにぎわす感じ、世間が注目せずにはいられなかった感じ、あの時にそのまんなかにいた人が今はNYにいて、そのように語ることと、あの時自宅のキッチンで新聞とテーブルと思春期の始まりみたいなところにいた私と、両者を別の時空からみてまるでつながったように感じれること、そういうのがなんというか、むずがゆく興奮した。
それからしばらくしたある時、2002年くらいだったかな。突然、ドキュメンタリーはもういいや、と思った。何をみてた時だったかな。タイトルやストーリーは覚えてないけれど、ドキュメンタリーの言葉に心をうたれなくなった。
反比例して、つくりもののお話のリアルさをどんどん享受できるようになった。
「スラムドッグミリオネラ」はインドのスラムで育った男の子がミリオネラになる話だけれど、インドのスラムのドキュメンタリーをみるよりもずっとリアル感を生成される。
なぜなんだろう。
ヒントは最近よんだ佐藤優と手島龍一の対談本にのってた言葉(最近ずっとひっかかってる)にあるんじゃないかと思う。謀略、情報操作のやりかたの一つとして、相手方にヒントを上手に与え、相手自身に物語を作らせる。人は自分の作った物語は信じやすいし、大事にする。そこを利用して情報を操作する。
もう一つのヒントは、webマガジンにあったYOUのインタビュー。「自分のことは自分ではあまり話しません。人に話してもらうとだいたいちょっといい風に言ってくれれるし、その方が気持ちいいから」ということ。二つは違うレベルの話なのだけれど、私にはなにかつながっている。
ライフログを記録できる世の中になったとして、その記録は本当に私そのものであるか、と言えば、否、なのである。
私たちの生は客観的記録ではない。数量でも計量でもない。
私たちの生はドキュメンタリー的というよりもむしろ、夢のエンターテイメント的なのだと思う。だから、映画がリアルなんだと思う。
ずいぶんと乱暴なまとめだけど(続きをかきたいんだけど)、今日はこんな風にしかかけない。今この瞬間能力が全然たりない。こんなこと、私だけが考えてることではなくて、いろんな人がいろんな分野でちゃんとした言葉で考えているはずだけど、その人たちに「そんなんだよね」と共有してもらえるような、また、うっすらと感じてる人に「こうじゃない?そんな気するよね?」と話せるような言葉が獲得できてない。
でも、書いちゃいたい。
そんな、今夜。