2009/10/28

32-33

32歳、最後の食事をたった今とったところ。
母がつくったカボチャスープだった。
土曜に作ったものだから本当は捨てようと思ってた。結局食べられなかったな、と。
けどさっきお腹が減って来て、おかしをたべようと思ったけどちがうなって思って、冷蔵庫からタッパーの蓋をあけて、鍋に移してミルクを少し足して火をつけた。
ほんのりやばいかな、という気配があるもののなんの、火を通せば大丈夫、だめなら残してもいいんだし。
沸騰させてあつあつのとこ、結局全部たいらげた。
甘いスープ。
どうやってつくったんだか、私の方がぜったいにおいしく作れるし、洗練されてないけど、やっぱり私はこういうのを愛情と呼ぶとしんじてるところがある。
母が愛情を込めている、という意味ではない。
私からみたら適当だし粗雑だなあと思うし、なんでそんな風にしちゃうんだろうと批判めいた目でみてしまうやり方も母にとってそれは普通で、どちらかと言えば丁寧にやってて、よくできたでしょう、みんなさあ食べるわよ!という勢いのもの。当たり前のこと。この中になぜか愛情がある。うれしくないのに、勝手に心があたたまっちゃう。まったく。おばあちゃんのコロッケも、おはぎも愛情。愛情はおいしいとは限らない。おいしくなくても嫌いと言って残してしまえない私の気持ちはその中の愛情に対しての礼儀、、、なのかなあ。愛情は才能に左右されない。うつくしくもないかもしれない。うちの母は繊細じゃないし、味のセンスもいまいちかもしれないけど、おいしいおふくろの味をつくるどこぞのお母様とやってることはちがわない。さて、この愛情は母の側にあるのか、私の側にあるのか。
と、考えて、間にあるもののような気がして来た。私も母も「わたしの愛情」というものは所有していなくて、私と母の間にあるのが愛情、なのかもしれない。これは今の今、思いついたこと。全然わからないけれど。別のもっとふさわしい言葉があるかもしれないな。

さて、書いてるうちに0時を回ったので、32週目無事終了です。33週目に突入です。

なにも思い浮かばない、いままでになくほうけている。
そうだ、日本に最初に英語が入って来たときに、loveは愛じゃなくって大切、って訳されたっていうのを最近どこかで読んだ。

大切、のあたらしい意味とか方法がわかる一年が、はじまりますように。こころから。私さんの為に。