2011/11/09

おばあちゃん、今どうしてる?

2011/11/02

バースデー

31日はおばあちゃんの誕生日だった。97歳を迎えた。97、というのも私たちの数え方だから、昔の人の数え年だとどうなんだろう、98歳の一日目が始まったね、と母がおばあちゃんにしゃべりかけてたけど、そうなのか。

2週間あけて会ったおばあちゃんは、電話で黄疸と敗血症が出ているときいていたが、それほど黄色いと感じなかった。ただ、むくみが顔や肩にまできていた。肩や首の後ろに足と同じように水がたまっていた。顔は全開までは頭蓋骨の形が感じられたが、むくんでその形がみえない。頬のよこ、あごのあたり一回りおおきくなったような感じだ。ちょうど、おばあちゃんが、おばあちゃんの人生のなかで少し太った時期、寝たきりになる前の、認知症がはじまった時期に会った時に私はおばあちゃん太ったなと感じたけれどそのときの感じを思い出した。その時、おばあちゃんは食べたいだけ食べてたから、あまいものもごはんも、だから少し太ったみたいだった。

足の屈折はより深く、左足の膝が胸に近づいていた。足のむくみは確かにひどかったけれど、先っぽの方からすこしずつ圧をかけていくと、以前程見事には引かなかったが、それなりには水を上へ押し上げることができる。けれども足首まで移動させた水を更にその上に持っていくのが困難だった。ふくらはぎもむくんでいるから、そして、よくみたら膝も腿も、むくんでいた。それでも、堅くなった水をほぐせば少しはいいのではないかと、水で堅い皮膚に上から圧をかけて、もみほぐした。親指を当てると、油脂がとけるような感じでふわりを柔らかくなる。あしの甲の水は、もはや帰る場所がないように、甲の上で行ったり来たりしてしまった。上にかえりなっていっても、戻ってくるのだ。前回までは確実に押し上げることができたのに。とにかく形がきまらないのだ。芯のない粘土のように、形がきまらない。こころもとない。そういう変化を感じた。
それから、今まではマッサージを気持ち良さそうに受けてくれてうつらうつらしたりしたけれど、今はむくみすぎて、少しでも触られるのが痛いようだった。あまり気持ち良さそうな顔はせず、眉間に皺を寄せた。少し動かすと、「いてえ」といった。いてえだけは反射で言葉になるのだから、すごいなあと思った。ごめんねごめんね、というとわかってる、大丈夫というような顔(本当にただの推測)でかすかにうなずいた。

今回は父も来た。父と2人で佐渡へ向かうのなんて、考えてみれば初めてのことだったかもしれない。父も弱っていて、でも自己管理能力のある人だから最近かかりつけの医者を定めてこまめにいっているらしい話をきいた。食事をするとそのあとには大量の薬をだしてのんでいた。免疫力をあげるとかいう薬。佐渡汽船の中の食堂で私は岩のり蕎麦、父は岩のりラーメンを頼んでたべた。父はめづらしく、ジャケットをきていた。

病室につくと母が誕生日の飾り付けをするためにまちかまえていた。もう半分くらいはできていて、なかなかステキなフラワーアレンジメントが病室の空中に飾られていた。母は千羽鶴を病室ぜんたいに飾り付けたいと思っていたて、私は壁にはっても傷にならない接着ゴムを持参していた。そのゴムと病室のフックをつかって父母私が奮闘、私はベッドの柵に曲芸のようにたって天井のフックに紐状につなげた鶴をひっかけたりして叔母がおどろいていた。

夕方、いとこがきた。埼玉にすんでいるのにもう何年もあっていない。
そのあと、佐渡在住のいとことその家族がきた。男の子三人、ずいぶん大きくなって、思春期まっただ中というような顔つきできらきらしてた。

夕食は外食ではなく叔母が作ってくれたおもてなし料理、はしりのカキフライを食べきれないほど、たべた。20個くらいはたべたかな。
それから、夜また病室に帰った。

8時過ぎに病室について、0時くらいまでは足を揉んでいた。0時を回ってわたしは寝たけれど、おばあちゃんは多分眠れてなかったんじゃないかな。4時20分に目が覚めて、ああまた水がたまってる、と思って5じくらいまで圧をかけてまた眠った。7時半くらいまで、普通にねむった。おばあちゃんは朝方までは起きている。そして午前中から気持ちよくねむるのだ。

そうやって、誕生日の日を迎えた。
7時半ごろ埼玉のいとこから私の携帯に電話があり、電話をおばあちゃんの耳元までもっていってというので、そうした。ボリュームを最大にしたらちゃんと聞こえたみたいで、なにか従姉がいうのにかすかにうなずいたように見えた。

私は12時40分の船で帰るつもりだったけれどもう少し長くいたいと思い、夕方の船に変更した。

15時ごろだっただろうか。
私と母と叔母が病室にいて、みんなうつらうつらしていた。うたた寝の合間におばあちゃんがなにかしゃべったから、なんかいってる!と私が母たちにいって耳をすました。二度目になにかいったとき、ずいぶんとはっきり、それでも100%聞き取ることができなかったが、「どこへいくのかわからん」と、そんなふうに聞こえた。

私はなんだか胸が一杯になってしまった。
おばあちゃん、迷ってる。みちに迷ってる。それで、とても不安そうなのだ。行かなきゃいけないのかもしれないけど、わからないのだ。どっちにいけばいいのか、どういったらいいのか。そうだよね、初めてのことだもんね。すごい冒険だよね。それも一人でしなきゃならないし、お手本のすぐそばにはないね。寿命を味わう、全うするってすごいね。勢いでもあきらめでもなくゆっくりと自分の行く道を探しているみたいな、そんな感じがした。一人で。
ひとりでやらなきゃいけないんだ。誰の力もかりられないんだ。がんばってるんだ。

誕生日までもってほしいという皆の気持ちに応えることはもしかしたら容易だったかもしれない。生きる方向にがんばることは。誕生日を迎えて、皆の気持ちが、後は好きなようにしていいからね、と優しくはあるけれど、そういうのだ。よく頑張ったね、と。ゴールのようにそういうのだ。だからいままでとは違うところに行ってみようとさまようのだけれど、どこへいくんだからわからない、そんな風なのではないか。
おばあちゃん、わかんなかったらここにいてもいいんだよ。すごくちいさな声で、叔母たちにあまり聞こえないように言ってみた。
この想像もすべて私のつくった、勝手な物語かもしれないけれど、私はそういいながら、涙がでてきて、おばあちゃんの布団ですいとって叔母たちにみつからないようにみつからないようにした。

もう会えないかもしれない。
もう、おばあちゃんがひとりで頑張る姿をみたから、ひとりで探索する姿をみたから私はいい。ひとりできっといく。

最後に元気でね、またね、と声をかけた。
がんばってね、と。頑張ってねの意味はこれまでは頑張って生きてねという意味だったけど、今は、おばあちゃんのひとり旅、がんばって、道中気をつけてという気持ちだった。
本当に尊敬する。

どこへいくのかわからない。

死に比べたら、私たちの人生のわからなさなんて、分かってる範疇のことのような気がした。何が起こっても知ってる物語のひとつだ。
でも、死は未知だから。生命でなくなるというのがどういうことなのかわからないもの。でもそれは外からみたことで、この「私」がどうなるのか、わからないもの。おばあちゃんは今私が「私」と自分を呼ぶように、さいごまで「私」だろうし、その「私」は小さい頃からずっと「私」だった。「私」のまま、今そこにいるのだ。わたしだって、きっとそうなのだ。ずっとわたしのまま、これからも行くのだ。
死は私をすてるときなのかな。
死んだ人は皆偉いな。ひとりで未知の世界へ飛び込むのだから偉い。だからみんな神様になるのかな。神様ってそういうことなのだろうか。