2010/07/03

ひきつづきサッカーのこと

最近はサッカーから少し遠ざかっていて、熱中していたころの感動の仕方を忘れていたのだけれどそれを思い出した日本vsパラグアイ戦だった。

テレビで生放送されている。
私は居間でじっとしている。
彼らは、今の今、激しく動いている。顔が引きつり、声が枯れ、足の筋肉の疲労は幾ばくか。
それが今の今、私のじっとしているのと同時におこっていることに、いつでもなぜか感動した。
涙さえ流した。
感動の試合運びにではなく、今の今、彼らがあのようにして存在すること、それを自分はきわめて平静な呼吸で平穏な居間で観ている。
その不思議さがたまらない。今、ここ、あそこ、を強烈に感じる。それで涙がにじむ。もちろん、試合内容が劇的であればあるほど。(だからやはりそれは試合が劇的で泣いているということに含まれているのかもしれないのだけれど。)
今、体が激しくぶつかった、今、倒された、今とんだ、今、ボールをかすった、今、ボールを凝視した、今、今、
彼らの今を私たちは観ていて、激しくぶつかった衝撃が自分に起こったとしたらどれだけショッキングな衝撃なのか、今あのボールを観て、そのとき光がまぶしかったろうか、歓声はどれだけきこえただろうか、。かれらの見たものを自分の目でみたように、想像する、聞いている音を、心臓のばくばくを、あるいは努めて冷静であろうとする頭脳を。
そして、私は居間でじっとしている。

サッカーだけに起こることではない、生放送であればそのような想像は可能なのだけれど、例えば、NHKのニュースを読んでいるアナウンサーの緊張を想像することだって可能のように思えるけれど、それはおこらないのだ。サッカーにおいて私はつよくそれを感じてしまう。演じているのではないから?シナリオも予定調和もない生なものをみているからだろうか。他に似たものはあるのだろうか。(オリンピック?)単に趣味の、好みの問題なのだろうか。


それから、そのサッカーをたくさんの人が観ているということ。
その人たちが何かを念じながら観ているということ。

全部が同じ時間におこっているということ。集中。

それらが私がサッカーを観ていていつでも興奮する理由の一つだと思う。