2011/12/22

ゆめまくらの音

昨日、半年くらいぶりにホットヨガにいって、帰ってから真っ暗闇で着替えてすぐにベッドにはいって、でも、本をよみたかったから小さい電気をつけて読んでいたら眠ってしまった。

夢を見た。おばあちゃんの髪の毛をシャンプーしている。
おばあちゃんの髪は黒々としていた。顔は亡くなった時のきれいな顔。
お姉ちゃんが一緒にそこにいたように思う。

その夢を二回みたように思う。

ふと、目がさめた。
電気がついていることにはきづかなかった。
夢でみたおばあちゃんがありありとしていて、現実の方が現実感がなかった。
そして、耳元でひゅーひゅー音がした。ひゅーひゅーと書くとすきま風のようだが、風のような音ではなく、空気のゆらぎのような、音楽のような、ものだった。外の車の音だろうかと耳をすましたけれども、すこし違っているように思えた。それはまだ夢の中だったのかもしれない。けれども、私にはなにか霊的な現象というか、おばあちゃんがそこにきているような気がしてならないのだった。気がしてならないというものの、私は眠りと覚醒の間にいたと思う。
間でも人間いろんなことをそれなりに感じるものなのだ。

その記憶は朝になると定着した。

おばあちゃんが来たんだ。
あの音、あの甘い感じの空気を包むようなかすかな音。
おばあちゃん、きてくれたんでしょう。

ありがと。

2011/12/05

かくれる。かくす。みえないもの

月が高かった。空気がすんでいる。月と少し離れたやっぱりてっぺんに星もいる。

あともういくつねて、あの子はぐるぐるまわってるうちに私たち、ちょうど太陽君とあの子の間にぴったり入ってあの子が太陽君のひかりをピッカリ受けてるのを一瞬だけ塞いじゃうの。一瞬だけね。まあなんてゆうか、わたしたちだって雲に一瞬太陽君の光が遮られてくらくなったりするし、なんか、あの子にとってはそのときはきっと私たちが雲みたいな??ちょっと、光遮られてさむいんだけど、、?みたいな?でも私たち雲みたく風まかせじゃないから、あの子だってきっとちゃんとわかってるもんね。ああ、そろそろね、って。

かくれちゃうことがこんなにも注目されるなんて、ちょっとすごいなって思ったけど、いつだってあの子はみんなの視線にさらされてるからなんだ。
だからみえなくなることにもきっと「いみ」がでてくる。

いつも見えないものは見えなくなることの「いみ」はでてこない。
いつもみえないものは見えると「いみ」がでてくる。

どちらでも、きっといいと思うけれども、なんていうか、私たち人間というのは、そういう特徴をもっているのか、それは生命のとくちょうなのか。

2011/11/09

おばあちゃん、今どうしてる?

2011/11/02

バースデー

31日はおばあちゃんの誕生日だった。97歳を迎えた。97、というのも私たちの数え方だから、昔の人の数え年だとどうなんだろう、98歳の一日目が始まったね、と母がおばあちゃんにしゃべりかけてたけど、そうなのか。

2週間あけて会ったおばあちゃんは、電話で黄疸と敗血症が出ているときいていたが、それほど黄色いと感じなかった。ただ、むくみが顔や肩にまできていた。肩や首の後ろに足と同じように水がたまっていた。顔は全開までは頭蓋骨の形が感じられたが、むくんでその形がみえない。頬のよこ、あごのあたり一回りおおきくなったような感じだ。ちょうど、おばあちゃんが、おばあちゃんの人生のなかで少し太った時期、寝たきりになる前の、認知症がはじまった時期に会った時に私はおばあちゃん太ったなと感じたけれどそのときの感じを思い出した。その時、おばあちゃんは食べたいだけ食べてたから、あまいものもごはんも、だから少し太ったみたいだった。

足の屈折はより深く、左足の膝が胸に近づいていた。足のむくみは確かにひどかったけれど、先っぽの方からすこしずつ圧をかけていくと、以前程見事には引かなかったが、それなりには水を上へ押し上げることができる。けれども足首まで移動させた水を更にその上に持っていくのが困難だった。ふくらはぎもむくんでいるから、そして、よくみたら膝も腿も、むくんでいた。それでも、堅くなった水をほぐせば少しはいいのではないかと、水で堅い皮膚に上から圧をかけて、もみほぐした。親指を当てると、油脂がとけるような感じでふわりを柔らかくなる。あしの甲の水は、もはや帰る場所がないように、甲の上で行ったり来たりしてしまった。上にかえりなっていっても、戻ってくるのだ。前回までは確実に押し上げることができたのに。とにかく形がきまらないのだ。芯のない粘土のように、形がきまらない。こころもとない。そういう変化を感じた。
それから、今まではマッサージを気持ち良さそうに受けてくれてうつらうつらしたりしたけれど、今はむくみすぎて、少しでも触られるのが痛いようだった。あまり気持ち良さそうな顔はせず、眉間に皺を寄せた。少し動かすと、「いてえ」といった。いてえだけは反射で言葉になるのだから、すごいなあと思った。ごめんねごめんね、というとわかってる、大丈夫というような顔(本当にただの推測)でかすかにうなずいた。

今回は父も来た。父と2人で佐渡へ向かうのなんて、考えてみれば初めてのことだったかもしれない。父も弱っていて、でも自己管理能力のある人だから最近かかりつけの医者を定めてこまめにいっているらしい話をきいた。食事をするとそのあとには大量の薬をだしてのんでいた。免疫力をあげるとかいう薬。佐渡汽船の中の食堂で私は岩のり蕎麦、父は岩のりラーメンを頼んでたべた。父はめづらしく、ジャケットをきていた。

病室につくと母が誕生日の飾り付けをするためにまちかまえていた。もう半分くらいはできていて、なかなかステキなフラワーアレンジメントが病室の空中に飾られていた。母は千羽鶴を病室ぜんたいに飾り付けたいと思っていたて、私は壁にはっても傷にならない接着ゴムを持参していた。そのゴムと病室のフックをつかって父母私が奮闘、私はベッドの柵に曲芸のようにたって天井のフックに紐状につなげた鶴をひっかけたりして叔母がおどろいていた。

夕方、いとこがきた。埼玉にすんでいるのにもう何年もあっていない。
そのあと、佐渡在住のいとことその家族がきた。男の子三人、ずいぶん大きくなって、思春期まっただ中というような顔つきできらきらしてた。

夕食は外食ではなく叔母が作ってくれたおもてなし料理、はしりのカキフライを食べきれないほど、たべた。20個くらいはたべたかな。
それから、夜また病室に帰った。

8時過ぎに病室について、0時くらいまでは足を揉んでいた。0時を回ってわたしは寝たけれど、おばあちゃんは多分眠れてなかったんじゃないかな。4時20分に目が覚めて、ああまた水がたまってる、と思って5じくらいまで圧をかけてまた眠った。7時半くらいまで、普通にねむった。おばあちゃんは朝方までは起きている。そして午前中から気持ちよくねむるのだ。

そうやって、誕生日の日を迎えた。
7時半ごろ埼玉のいとこから私の携帯に電話があり、電話をおばあちゃんの耳元までもっていってというので、そうした。ボリュームを最大にしたらちゃんと聞こえたみたいで、なにか従姉がいうのにかすかにうなずいたように見えた。

私は12時40分の船で帰るつもりだったけれどもう少し長くいたいと思い、夕方の船に変更した。

15時ごろだっただろうか。
私と母と叔母が病室にいて、みんなうつらうつらしていた。うたた寝の合間におばあちゃんがなにかしゃべったから、なんかいってる!と私が母たちにいって耳をすました。二度目になにかいったとき、ずいぶんとはっきり、それでも100%聞き取ることができなかったが、「どこへいくのかわからん」と、そんなふうに聞こえた。

私はなんだか胸が一杯になってしまった。
おばあちゃん、迷ってる。みちに迷ってる。それで、とても不安そうなのだ。行かなきゃいけないのかもしれないけど、わからないのだ。どっちにいけばいいのか、どういったらいいのか。そうだよね、初めてのことだもんね。すごい冒険だよね。それも一人でしなきゃならないし、お手本のすぐそばにはないね。寿命を味わう、全うするってすごいね。勢いでもあきらめでもなくゆっくりと自分の行く道を探しているみたいな、そんな感じがした。一人で。
ひとりでやらなきゃいけないんだ。誰の力もかりられないんだ。がんばってるんだ。

誕生日までもってほしいという皆の気持ちに応えることはもしかしたら容易だったかもしれない。生きる方向にがんばることは。誕生日を迎えて、皆の気持ちが、後は好きなようにしていいからね、と優しくはあるけれど、そういうのだ。よく頑張ったね、と。ゴールのようにそういうのだ。だからいままでとは違うところに行ってみようとさまようのだけれど、どこへいくんだからわからない、そんな風なのではないか。
おばあちゃん、わかんなかったらここにいてもいいんだよ。すごくちいさな声で、叔母たちにあまり聞こえないように言ってみた。
この想像もすべて私のつくった、勝手な物語かもしれないけれど、私はそういいながら、涙がでてきて、おばあちゃんの布団ですいとって叔母たちにみつからないようにみつからないようにした。

もう会えないかもしれない。
もう、おばあちゃんがひとりで頑張る姿をみたから、ひとりで探索する姿をみたから私はいい。ひとりできっといく。

最後に元気でね、またね、と声をかけた。
がんばってね、と。頑張ってねの意味はこれまでは頑張って生きてねという意味だったけど、今は、おばあちゃんのひとり旅、がんばって、道中気をつけてという気持ちだった。
本当に尊敬する。

どこへいくのかわからない。

死に比べたら、私たちの人生のわからなさなんて、分かってる範疇のことのような気がした。何が起こっても知ってる物語のひとつだ。
でも、死は未知だから。生命でなくなるというのがどういうことなのかわからないもの。でもそれは外からみたことで、この「私」がどうなるのか、わからないもの。おばあちゃんは今私が「私」と自分を呼ぶように、さいごまで「私」だろうし、その「私」は小さい頃からずっと「私」だった。「私」のまま、今そこにいるのだ。わたしだって、きっとそうなのだ。ずっとわたしのまま、これからも行くのだ。
死は私をすてるときなのかな。
死んだ人は皆偉いな。ひとりで未知の世界へ飛び込むのだから偉い。だからみんな神様になるのかな。神様ってそういうことなのだろうか。

2011/10/26

62年前のおばあちゃんと私

真夜中に風呂で歯を磨きながら、おばあちゃんの少女時代を思ってみようとする。
像はむすばない。

おばあちゃんにもこんな時間があっただろうか。
真夜中に風呂で、34歳。

おばあちゃんが母を産んだのは34歳ではないか。
96歳のおばあちゃん、引く、62歳の母。
62年前のおばあちゃんは34歳で、あと一週間足らずで35歳になろうとしている。
子供は7人産んで、男の子ばかり2人なくなり、末の女の子が7月に産まれたところだ。
まだ3か月だ。
けれども、きっとせっせと働いている。今日も宴会があっただろうか。料理して、沢山刺身をさばいて酒を運んで笑顔でお客さんとしゃべっただろうか。

夜中に風呂に一人で入ることなんてあっただろうか。
そうして、遠くの誰かに想いを馳せたりすることもあっただろうか。

ないとは、言えないのではないか。

2011/10/22

おばあちゃん、熱がさがってにこやかだという。黄疸と敗血症はあるが、抗生剤を打つと熱がさがる。

母と相談して明日は行かないことにした。

抗生剤を打つと熱がさがって危機を脱する。
じゃあ、抗生剤を打っても効かない時が死んじゃうときなの?
それは、くるしいんじゃないの?
死ぬ時はくるしくないといいよね。
でも熱がでてくるしくなったら抗生剤の処置をしてまた少し楽になって、死から遠ざかって、、どうなるんだろうね、

と、母と話した。
母は電話を切る時にありがとね、という。こないだもだった。そっか母にとってはこれはありがとねってことなんだ、私にとってはおばあちゃんの死は自分のこと、自分にとって大事なこと、もっといえば、自分の興味である。

興味。

ずっと言葉にしていいか迷ったけどそうなんだ。
私は生から死へ人が移り変わる様をみたことがなくて、それをみたいとおもっている。大切な瞬間としてそれを目撃したいとおもっている。自然現象のひとつとして、誕生の瞬間を見たいのと同じ様に死の瞬間をみたいのだ。

「海獣の子供」中では、遠くの海から魚たちが好奇心をもって「何か」を見にくる。

子供のころ、おばあちゃんがいずれ死んでしまうことを知ってどうし様もなく悲しくてベッドでしくしく泣いた時からおばあちゃんの死は私のなかにずっと埋め込まれている。

私は、見たいんだ。

おばあちゃん、そんな私でもいいですか。

2011/10/21

この2、3日が山だという。

山?

山をこえればもう少し、という意味らしいです。
でもよくよくきくと敗血症と黄疸がでてるし、この2、3日が山で、、、という言い回しになる。

敗血症も黄疸も、初めてでるものです。
これらがでるとお迎えまでが近いみたい。

阿弥陀様、スタンバッてるの?

おばあちゃん、どんな山を登ってるの?
大変な山だねえ。山というからには頂上は晴れやかで気持ちいいといいなあ。

明日は用事があるので、あさっていってきます。
迷ってる母に、日曜に行こう、と言った。

明日、なぜ行かないのか?
今週もずっと考えてた。会社休んでずっとついてることだって、ほんとならできる。
なぜしないんだろうと。

答えはでてないんだ、なんか考えたんだけども。

明日は保坂和志さんと高橋悠治さんの対談に行ってきます。
夜はがくちゃんと私の誕生会をなっちゃんがやってくれます。

私は、本当はおばあちゃんはおばあちゃんのお誕生日までぜったいに生きていると信じてる。
私はおばあちゃんに届くように言ったから。私のお誕生日を祝ってね。おばあちゃんのお祝いしようね、って。

おばあちゃん、日曜日に会いにいくから、山のぼり、がんばって、応援するから。
会いたいよう。

2011/10/19

とびうおのすり身スープ

寒くなってきた。
遅くに帰宅しても暖かい汁物が食べたい。
ビールだけでは寒いから。

こんな風なのができた。

--

1.梅干しのたね(すこし肉がついた状態)を水に入れて火にかける。
  煮立って来たらしばらくことことにる。(だしをとるイメージ)
  この間にわかめ(乾燥なので)を戻しておく。
  卵をとく。 
 
2.解凍したとびうおのすり身を適当な大きさにして1にいれる。

3.2に酒を入れる。

4.水気を切って刻んだわかめを3にいれる。

5.味をみる。梅干しからでた塩気がちょうどよければそのまま仕上げに、
  濃ければ水をたして、うすければ少し醤油をたす。(今日はそのまま)

6.卵を5にほそく入れてかき卵にしてできあがり。

--

思いつきだったけど、梅干しでつくるスープはとてもおいしい。
梅干しとタンパク質は結構あう。
うどんのスープとしてもいけるかもしれない。その時は卵はおとすだけかな。
佐渡通いで叔母が持たせてくれるとびうおすりみ。ふわふわ。

--

追記:あたたかい飲み物でもうひとつ。夏につくったうめシロップにショウガ(チューブでもすりおりしても)をいれて濃いめでお湯割りにするとうめネードって感じ?になってお店でこういうのあったらな〜という飲み物になります。

2011/10/17

あちらにいくひとに

いい言葉を思い出した。

お迎えがくる

という言葉。
なんだかいい言葉だなあと思った。
あたたかい響きに、聞こえるじゃないか。

2011/10/15

三回目

火曜日に三回目のドクターとの面会があるという。
午前中にレントゲンをとって午後にお話がある。そうしたらあとどれくらいかというのがわかる。
三回目のお話があるのは、もうすぐだということなんだって、おばちゃんが近くの部屋の人かとかにそういわれたって。

母から電話があった。

おばあちゃんは今日も熱を出して注射でさげたんだって。
かなでみたくずっとマッサージしてあげられる訳じゃないからもう足は
パンパンだって、顔にもむくみがでてるって、

って。

2011/10/13

おばあちゃん4

うちのおばあちゃん、もうすぐしんじゃうの。

って、
何度も言った。
言う度に自分もどきっとするし、きっと聞いた相手もどきっとする。
いろんな言い方ができるけど、祖母が死に向かっている状態を「あぶない」とか「悪くなってる」とか「だめかもしれない」「終わる」とか、表現しようとすると、その前に口と頭がとまる。「あぶないってなにが?いのちがなくなることはあぶないことなのか?」「死はだめなことなのか?」ともやもやしてしまう。わからなくなってしまうから、一番そのままの表現をつかうことになる。

もうすぐ、しんじゃう。

自分にも言い聞かせるように、つかう。

---


10月の連休。
一日目は夜着いて、数日前から来ていた従姉とおじちゃんおばちゃんと外食する。
おばちゃんは私たちにおいしいものをたべさせてあげたいっていっつも考えてくれる。オムライスもピラフもクリームスパゲッティもキノコガーリックいためもとてもおいしかった。
オムライスなんて卵がとろっとろだった。
20:00に病院について、0:00までパンパンにむくんだ足の水を上に押しあげるマッサージをした。
おばあちゃん、高栄養の点滴に変えてからむくみもなくなって肺の水もなくなってよくなったのだけれど、早くも高栄養に身体がなれて、またむくみ始めたのだという。

一週間前に見舞った姉が父に話したところによると「あれは延命措置だね」ということだそうだ。姉は医療関係者なのでそういう風なこともみえるのだろう。

いつか、息をしなくなって、皮膚が変化して、血液がめぐらない状態になる時がくる。
そうして、死に移行していく。
でも、今は本当に生きている。暖かくて、血液が本当に末端まで流れていて、皮膚はつやつやしている。手を握るとはなさない力があって、背中がかゆいって感じる感覚があって、むずむずしてたり、不快はことはいや、恥ずかしいことはいや、それに、おばあちゃんだから私は彼女からみたら年少者なので、いたわりの対象として、「ありがとう」「もういいよ」みたいなことを言っているようなときもある。おばあちゃんの世界を想像する。

1日目の夜はほとんど寝なかったようだ。私はおばちゃんが作ってくれた病室のベッドと壁の狭い幅にあわせたふかふかの布団で熟睡してしまった。

2日目は朝から身体の手入れをして、午前中からマッサージを開始した。昨夜一生懸命やったつもりのマッサージは全然効果がなくてほぼ元通りになっていた。なので、今回はやり方を変えてみた。マッサージというよりは振動を足に与える。指先をぎゅっとにぎって、横に、縦にぶるぶるさせる。フェルデンクライスで親指を前後に動かすと身体全体が緩むという方法を参考にしてみた。足先の力を抜いてもらって、骨からほぐして、それから筋肉も使うしストレッチにもなると推測。これがよかった。パンパンに水がたまってしまった状態はぶよぶよだけれど詰まった堅さがあって、この堅さを柔らかくして、動く水にする。動く水になってから徐々に足首、ふくらはぎ、膝うらまでもっていく。一つの足に2時間以上かける。この方法でやってみたら24時間たっても水の溜まりは足首部にわずかで押さえられた。

おばあちゃんは目を手が自由になると点滴の管を外そうとするので、一人の時、夜の時はミトンのような手袋をする。
けど、一緒にいるときは外してあげることにしてる。マッサージしてる間も隙あらば手を首の方へ持っていくので、私はわらって、おばあ〜〜〜ちゃ〜〜ん、といって手を押さえて握る。それも観察してたら、はずそうとしてる訳ではなくて、かゆいところを掻きたいのかもしれないと思えて来た。「掻いてもいいけど、この管はぬかないでね」とおばあちゃんに言った。おばあちゃんはだって、ほんとはいろいろわかってるから。お願いしたら聞いてくれると思う。

お口の掃除をしてた時、お口あけてっていうのを私が自分の口を大きく開けてみせて示したら、おばあちゃん、手を私の口の方に持って来たから、ふざけてパクって咬もうとした。そしたらぱっと手をひっこめる。私はうれしくなって、アーン、パクッ、の遊びをなんどか繰り返した。なんだか元気じゃない。

2日目の夜のことだ。
一日中病室にいるとこちらの身体もなまってくるので、夕食のお弁当を外に持っていって食べようと思って、おばあちゃんに「お散歩言ってくるね」と声をかけて出かけた。
海が見たいなーと思って、港方面へ歩く。
すぐに海にでたけど、そこは漁船の停泊地で、初めてそんなところをまじかにみたのと、夜だったのもあってものすごい迫力というか、今使われている漁船の醸し出す感じが恐ろしくてここではお弁当は無理だ!と思った。海の中にコンテナ?みたいな丸い何か化学的なものを貯蔵しているような建造物があって、波は静かで、月が高いところにすこしだけおぼろげてみえた。そこを去るために歩く道も倉庫の間の道で、真っ暗で、すごく怖かった。商店街を曲がるといつもの道なんだけど、これは散歩だから知らない道を行こうと思って一つ先を曲がった。すると、道が斜めだったのか、なかなか病院に出そうな道にでない。不安だけど、楽しくもあった。10分やそこらでこんなどきどきするって東京ではないなあ。ふと気づくと左手にかわいい教会があった。両津教会とかいてある。明治12年に建てられ、16年に焼失、20年に再建されたと書いてあった。とてもかわいい教会。
教会をすぎるとやがて見た道に出た。こっからはわかると思ったけどショートカットしようとしたのがいけなかった。真っ暗な道、片側が森、向こうからおじさんがあるいてくる。こわい、、ほ、なんでもなかった、ゴミ捨ての女の人がいる、なんかこわい、やこれもなんともなかった、、というのを繰り返し、どうもこの道は違う、病院から遠ざかってるぞ、と判断して引き返す。

そんなこんなして病院までもどったのは19:30をすぎていた。でたのは18:50だから結構なお散歩をした。いそいでおべんとを食べて、病室に戻った。

ただいま!といったらふわあっとわらった。
おばあちゃんに顔を近づけると私のネックレスを掴もうとした。元気だとおもった。

ひととおり、身の回りを片付けてからおばあちゃんの手袋をはずしてあげようとした。
はずして持った手は熱かった。そして、その瞬間だった。私の手がとても冷たかったらしく、とても嫌な顔をして手を払いのけた。私の手を払いのけてすぐ、ふとんんお端をがしっと握り、上へひっぱりあげる仕草をした。そんなこと初めてだったので、私はびっくりした、手がぶるぶる震えている。怒ったのか?何かが急におばあちゃんの中でかわった、必死の形相という感じだった。震えてるし、布団を引き上げたのだし、寒いのだ、と判断してみよう。そう思って、布団をきちんとかけてあげて、手を布団の上から握った。ちょうどすぐに看護婦さんの来る時間だった。手が震え、息が荒くなった。
うちの母がつくった看病のひまつぶしにつけるひまつぶしの日記というのがある。入れ替わり立ち代わり看病した人がその日の様子を綴っている。そのノートを読むとおばあちゃんの状態変化がわかる。以前の記述で、手が震えていると熱がでると書いてあったのを思い出した。

しばらくすると看護婦さんがきたので、震えてるんです、というと熱がでるのかもね、とやはり言われた。その時は検温しなかった。まだ、熱がすごくあがってるわけではなかった。痰を吸引してくれた。その看護婦さんは吸引がとても上手だった。
吸引したら息が楽になったのか、すこしうつらうつらし始めた。
看護婦さんは11時頃またきますから、と言ってでていった。

熱がでるにしろ、むくみは回避!とおもって足をもみもみゆらゆらして、五本指ソックスを履かせた。自分用に持っていってたけど、熱がでるなら五本指貸さねばきはいいのではないかと思った。マッサージしてるとき、膝のうらをさわるととてもとても熱かった。

11時すぎた頃、また息が苦しそうになって、おでこを触るとあつい。
看護婦さんよんでこよか?と聞いてみる。
看護婦さんは見回りを端からやっていて、もうすぐこちらにくるみたいだった。
呼びにいって、やっぱり呼ばずに戻って、でもやっぱり戻ったら呼びにいかなきゃと思って部屋をでたらちょうど看護婦さんがいた。
熱が40℃あった。
熱冷ましの注射、アイスノン、痰の吸引。
それから三日でてなかった便もたくさんでた。
でも、看護婦さんは冷静でおばあちゃんに優しいので私は安心できた。アイスノンは40℃もでたら三カ所くらいひやすんだけど、手足があつくないから冷やしすぎもてえそ(つらい)だろうからね、一カ所だけにしとくね、といい、ふとんは一枚に、先ほどの靴下も脱がしたほうがいいといわれてぬがすことにした。
熱が放出される準備。多分、汗をかいて、とかじゃないんだ。

1:30 頃、38.8℃。
5:30に36.4℃、

9時過ぎは35.8℃までさがって下がり過ぎ。
血圧も80/40、心配になる。けど、看護婦さんは意識もしっかしりてるし、薬の影響は血圧とかにあるから大丈夫といってくれた。
私も大丈夫な気がした。顔が全然ちがう。熱が出てる時のおばあちゃんは昔びっくり人間みたいな番組でテレビにでてた「くしゃおじさん」みたく、上下がくしゃっとちぢまっていた。今、元通りというか、すっかり上下に伸びていて、口元など、いつももぐもぐしているのにそれもなくて力が抜けきっている、いい意味で。呼吸もずいぶん楽そうだ。肌にもつやが戻った。

昨夜はとにかく熱を戦って疲れたのか、この午前中はずっとずっと熟睡していた。熟睡とそうでないうつらうつらの眠りの違いは、うつらうつらの時はマッサージを気持ち良さそうに受けてくれるけど、熟睡中は反射で足に触る手を離そうとする。そういえば、熱が出てる時の足首や足指はギュっと堅く結ばれて揺らしても力が抜けなかった。今はゆるゆるしてる。

12:40の船にのるので、12:00におじちゃんが迎えに来てくれた。

今回も、眠っている顔をみて、病室を後にした。
帰る前、おじちゃんをまっている最中、一瞬目をさまして、すっごいビッグスマイルをくれた。(ありがとうおばあちゃん)
すぐにまた熟睡の中に戻っていった。

2011/10/02

おばあちゃん3

9月の三連休にいったときのことを書いておこうと思う。

高栄養の点滴に変えたのがよかったらしく、酸素、体温、血圧ともに良好。むくみもだいぶ引いていた。呼吸もくるしそうではない。夜中、眠れずにベッドの柵に手をかけておき上がりたいような、上半身を浮かすようなそぶりをみせる。はらはらしたけど、私は眠った。
おそらく、体位変換、おむつ交換をしてもらえなかったために不快なのではないかと思った。ごめん、おばあちゃん、私にはできない、し、看護婦さんが来た時にはおばあちゃん眠ってたから看護婦さんはおこしちゃいけないと思って多分おむつ交換しなかったんだと思う。こういうの、何が一番かわからない。
それで、私は罪悪感とともに眠った。

朝、6時くらいに来てくれた看護婦さんがおむつ交換と体位変換をしてくれた。気持ちよくなったのか、それから寝始めた。
病室は東側に窓があり、海から登る朝日がいつでもきれいだ。
私も二度寝にはいった。
8時前にやっと起きて、おばあちゃんの様子をみたり、着替えたりする。
9時に看護婦さんがやってきて顔を拭いたり痰をとったりしてくれる。
看護婦さんがいったあとが、朝のエステタイム。暖かいタオルで顔をおおったり、首筋を暖めたり、気持ちいいと思うからやるんだけど、おばあちゃんは意外と嫌な顔する。眉間に皺をよせる。いやなのかなあ。あと、手足を暖めてマッサージをする。
それでだいたい11時くらいになる。

おばちゃんから電話がかかってきた。
夜ごはんにつれていけないから昼ごはんに外食しようという。かなちゃんの好きそうな店だよ、ママもこないだ連れてったら気に入ってたよ。と。

妙生庵という民家を改造したとてもすてきなカレーやさんだった。スロースード、エコ、ベジタリアン、というキーワードの似合いそうな。豆のカレーと、ナッツのぎっしり詰まったケーキとコーヒーをいただいた。
稲刈り中の田んぼの見える二階の席だった。正月館(うちの屋号)の稲刈りは先週、台風の前日に終わったという。台風の前と後では収穫量が大分違うから本当によかったねと話した。

13時半くらいには病院へ戻って、またベッドに登って足マッサージなどした。おばあちゃんは起きたり眠ったり。
二日目だったので身体がなまってしまって、お散歩にいきたいな、おばあちゃんが眠ったらいこうかなって様子をうかがっててもなかなか眠らないので、
「おばあちゃん、私、お散歩にいってきていい?このマッサージおわったら行って来てもいい?」ときいたら、うなずいた(ように見えた)。その後マッサージしてると「早くいけっちゃ」といったのか?わからないけどそう聞こえたので、「じゃあ行ってくるね、すぐ戻るからね」といってでた。病院の横に鳥居があってその神社がずっと気になってたのだ。神社は草ぼうぼうで静かだった。ご挨拶して、ストレッチして、となりの公園にあるブランコでしばらくあそんだ。五時半に戻った。

それからまた手を握ったりおばあちゃんの顔の側で歌を歌ったりしてみた。大声じゃなくてもきっと聞こえるとおもって小さい声でうたったけど、どうだったかなあ。
だいたいおばあちゃんも私も共通してしってる歌なんてあるのかわからない。私の持ち歌(童謡)はおばあちゃん、知ってるのだろうか?わからないけれども、海にまつわる歌、ヤシの実とか海はひろいなとか、思いつくままに歌った。おばあちゃんは特に反応しなかった。上を向いて歩こうを歌いだしたら、私は涙がでてきてしまった。おばあちゃんを思ってか、自分を思ってか、あの歌は涙を誘う音階だからか。
それから、おばあちゃん、ありがとね、だいすきだよ、といった。
多分、聞いてくれたと思う。

夜になってカーテンの隙間から星がきれいに見えたので23時頃、おばあちゃんが一瞬ねむった隙に外へでた。満天の星空だった。流れ星、ちいさいの2つと、中くらいの3つ見た。天の川がかかっていた。くらい道ばたに体育すわりして、両側から虫の音にはさまれて見上げた。

その夜もおばあちゃんはあまり眠れなかった。
同じように、朝になって眠り始めた。
11時半におじちゃんが迎えにくるまでさすったりマッサージしながら、病室を掃除して(その夜は母がくることになっていた)清潔にして部屋をあとにした。

おばあちゃんの顔をずっとみてると、本当に美しくて、つぶったまぶたによった細い細い皺が本当に美しくて、私はこの美しさを覚えていたいと思った。細い面相筆じゃないとかけないような皺。顔の皮膚がうすくてつやつやで、細部まできれい。この人はきっとしあわせだったと思える。
ほとんどしゃべることも声をだすこともできないけれども、ときたまうれしそうに笑う時の顔が、昔と全くかわらない。びっくりしたように目を一度みひらき、口もとが笑う。

2011/09/13

海の月

鎌倉の海でお月様を見ながら栗とキッシュとビールとおしゃべりをした。
お月様、すごく明るくてまわりに丸い光の環ができていた。
砂浜の幅がヨーロッパの映画にでてくる砂浜のように広く、波は遠く、音だけがする。
話している間、潮は引いていった。
砂はこまかくさらさらだった。

この、隣にすわる人は誇りということばがとても似合うのだった。
わたしにもそれが必要だということは、頭では理解している。
ごまかさないで、誇りだかく。

帰ってからおわらぬ会話の中で、
giftedという言葉を贈ってもらった。

おばあちゃん2

週末二度目の佐渡へ。
土曜日は曇天でとても寒く、日曜は泳ぎたくなるほどの日和。
まだ夏と秋が行き来してる。

先週行ったときより少し元気な気がしたのだけれど、首のバイパス手術をして、栄養をそこからいれてるのが良いみたい。熱も36.1℃、と安定、血圧128/68、酸素98%と数値はよい。
痰が詰まるみたいでぺこりぺこりとびいどろみたいな音がたまにする。息がとまってるんじゃないかって心配になる。息をするのは苦しそう。はあはあいってる。
口の中に痰がたまったり、乾燥して唇の周りがかぴかぴしたりしてて、口の掃除をして頻繁にしてあげる。舌をきれいにしようとすると、痰と一緒に舌の皮もめくれてしまっているような気がして躊躇した。きれいにしたらプロペトというワセリンのようなものをぬってあげる。

顔は化粧水でコットンパックして、熱いタオルで足を暖めて、マッサージ。
ひたすらマッサージ。頭蓋骨や、肩、首筋もやってみる。触れるところ、さすれるところはすべてさすってみる。女同士だもん、いいよね?という感じで結構だいたんにさする。

火星の人類学者を思い出す。
親に抱きしめられるのはつらいけど、抱きしめられる感覚は安心するから、牛をはさむ機械で自分をはさむ火星の人類学者。
おばあちゃんはもうすぐ死んじゃうし、ぼけてるし、しゃべれない。けど、抱きしめられることは彼女をあたたかく包むのではないかと、私は想像する。ベッドの上で寝返りも打てないおばあちゃんを抱きしめるのは難しいけれど、二の腕を肩を、首筋を、腰を、脇を、抱きしめる感覚でさすってみる。ぎゅっとする。「ぎゅーーーー」っていいながらやると少しだけ笑う。

日曜は11時半のジェットフォイルだからあまり時間がなくて、おばちゃんが迎えにくるまでずっとベッドにのって、足をマッサージした。途中からは、足の甲を両手で上下にはさんで、そのままにした。わたしはそのうちうつらうつら眠ってしまった。おばあちゃんも眠っていた。
その、まどろみはおばあちゃんの意識と私の意識が混じり合って溶け合っているような感じだった。眠りに入る前の独特な意識状態。沖縄のイシキ浜でインフルエンザ疑いの私が横になったとたん襲われたまどろみと同じだなって思い出した。
とてもとても、しあわせだった。その時間のしずけさ、その時間がわたしとおばあちゃんの間にあったことがしあわせだった。

次は二度目の三連休。
調子がそのまま続きますように。

2011/09/06

風のスカート

いつも履いてるスカートがない。
狭い部屋に、ないということが不可思議なくらい、探しても、ない。

記憶をたどる。最後に履いたのは、水曜、木曜?

金曜の夜飲んで帰ってそのままバタンキューして、全開の窓を抜ける強風に、窓際の大切なアクセサリーが飛んでいかないように眠気まなこに避難したりしたっけ。

そうか、スカート、飛んでったんだな。風にのって。

こうして持ち物が次第に入れ替わってゆく。

2011/09/04

おばあちゃん

おばあちゃんの足を揉んだ。
おばあちゃんの顔をマッサージして、頭をさわって、肩、腕、腰、足、を触って揺すってマッサージのまねごとかもしれないけれど、いろんなとこ触った。
おでことおでこをくっつけた。
胸に耳を当てて、心臓の音を聞いた。
手を揉んだ。

足も手も、末端からマッサージしていくと毛細血管から赤い色がでてきた。
太めの血管は末端から中心に圧を加えると、血液が流れる様が見れた。
クリームをぬって滑りを良くしたため、皮膚は湿ってうすいうすい透明の膜のようだった。

あしがむくんでゴム風船にふくれて鑞のような質感だったが、指先からすこしずつほぐしてあげると、暖かくなり、赤みを帯びた。骨に沿って水分を押し上げる。水分は手の全体に圧を抱えて上に押し上げると目に見えて皮膚の下を移動した。

夜にかけてまたむくみ、
朝がたからまた、マッサージをした。

5時過ぎだったか、
病室の窓の外の明るさで目覚めて、見ると、海から出たばかりのまんまるの太陽がそこにあった。びっくりした。
台風がまだ近くにいる為さまざまな雲があり、朝日に焼けていた。

おばあちゃん、すごいきれいだよ、みて、朝日!

というと、

少しわらった。

笑う表情も、かすかに出た声も、ずっと前から知ってるおばあちゃんのそれとかわらないものだった。かわいらしい声。

目をあわせておばあちゃんが少し目を開いて目配せ、みたいなのをした瞬間もあった。

かなでだよ、というと、少しわらったりした。

絶対に来週も会えると信じて過剰なお別れはしなかった。
でも帰って来て、風呂に入りながら、私は、おばあちゃんが息を引き取る瞬間を想像したら泣けてきた。思い出し泣きではなく、予想泣き。

覚悟するとかそういうのではない。
ただ、少しずつ現実になっていくのを、準備している。
おばちゃん、おじちゃんたちの介護の苦労、三人で頑張ってきて日々に感謝したいから、
なくなったらおばちゃんとおじちゃんとねぎらって旅行につれていってあげたいなとか、
そんなことすら考える。
でも、来週また会えると信じてる。

だって、おばあちゃん、いいにおいがして、まだ死ぬって感じじゃなかったもん。
身体もきれいにしてもらってて、大切にされてるなって思った。
みなさんが大切にしているところに少しだけわたしも混ぜてもらって、存分におばあちゃんに触れてうれしかった。
息の音も、皮膚の質感も、目の大きさも、目の見ている方向も、口の動きも、耳の形も、骨ばかりの腕か足の間接も、膝も、爪の先も、首の後ろも、唇の周りも、全部さわって、確かめた。

どこもいいにおいがして、あたたかくて、つやつやして、生きていた。
触ると脈動があった。
指先を揉むと反射で動いた。手を取ると指をこちらへ折り曲げたし、目やにをとろうとすると目をぎゅっとつむったし、マッサージ痛い時は眉間に皺がよった。


帰りがけ港への車中でにおばちゃんが
「どんなものにも魂があって、おばあちゃんの魂にはかなちゃんの気持ちが伝わったよ」といった。こちらに着いたよとさっき電話したらそのときも同じことをいった。

伝わったもの、こと、は、おばあちゃんが死んだらどうなるんだろう。そもそも生きてても死んでても、それははどうなってるんだろう。

せめて、それを考えようと思った。


2011/06/20

2011 梅仕事 1

梅ジュース用梅 5kg (250円/kg 奈良産 サミットにて購入)
梅肉エキス用梅 4kg (580円/kg 群馬産 サミットにて購入)
氷砂糖 6kg(425円/kg サミットにて購入)
広口瓶 5L(880円 サミットにて購入)

■梅肉エキス
恩蔵さんと。

・摺り開始時間 6月18日 19:00頃
(その前に洗ってへたをとっている)
・4kg目標だったが2.5kgほどで力途絶える。(午後10時頃)
・夕食をとって休憩、恩蔵さんが夜中にしぼってくれる。
・この日は絞り汁を鍋のまま冷蔵庫へ。
・朝11時くらいから鍋を火にかける。
(一時間くらい前に冷蔵庫からだして室温に戻してから)
・火は極弱火。ゆっくりあたためる。
・13時くらいには煮詰まった状態になる。途中あく取りは3〜4回くらい。
・へらでなるべく鍋はだについたエキスをこまめに落とすとよいみたい。
・出来上がりは50gはいるビンに2つ。だいたい90gくらいかな。2.5kgで。ネットでしらべると1kgから20gできるとかいてあったりするが、これでよいのだろうか。(しかししっかり煮詰まってわりと固めである。)

■梅ジュース

・5kg+1.5kg(エキスに挫折した分)
・18日夜に冷凍庫へ。

追記
・25日夕方、氷砂糖につける。割合は1:1。よく洗ったビンの中や口をを念のため白ワインビネガー(たまたまあったお酢)でふいてから。それから、いくつかのビンには酢をまわしかけた。なんとなく、発酵を防止するため。(気温が既に高いので)



追記2(7/5)
エキスが出始めて3日くらいのころは酢の匂いが勝っていて、お酢をまわしかけたのは失敗だったなとおもったけれども、一週間以上たってエキスができって凍砂糖もとけきってしまうと酢は気にならない。

☆今年は250円/kgの梅をゲット。毎年思うけど、いくらの、どんな状態の梅と出会うかは運だなあ。今日夜サミットにいったらもう250円のはでてなかった。

2011/06/19

ブロッコリパスタの作り方

材料:(1人分)
ブロッコリ 1房(半分でもOK)
パスタ 80〜100g(食べたい量でOK)
塩 一握り
ニンニク 2片(好きなだけいれてもいい)
鷹の爪 1つ(あまり辛くならないように注意)
オリーブオイル 大さじ2くらい(すごい適当、でも多めがいい)

作り方:
1)鍋に水を入れて火にかける。
2)ブロッコリを食べやすい大きさに切り分ける。芯は周りの堅い皮をざっくりきりとって真ん中の柔らかいところを1cm程度の輪切り。
3)ニンニクをみじん切りにする。鷹の爪は細かくする(このあたりは好みで適当に)
4)フライパンにオリーブオイル、ニンニク、鷹の爪を入れて、極弱火にかける。
5)お湯が沸騰したらまず塩を一握り投入。塩加減はここで決めるので思い切ること。
6)5)にブロッコリを投入。一度温度が下がるので再沸騰したらパスタを投入。
7)パスタは茹で時間より若干はやめに引き上げて、ブロッコリと共にニンニクのはいったフライパンへ。少し茹で汁も入れる。(お玉一杯弱くらいいれても大丈夫)
8)フライパンを揺すって全体を混ぜる。ブロッコリとパスタとニンニクが渾然一体となるように。仕上げのオリーブオイルをまわしかける。
9)熱々のうちにお皿にもって、好みで胡椒、チーズなどをふりかけていただく。

ポイント:材料はすべて適当でよい。塩加減はゆでる時に決まるようにする。(だいたいゆで汁がちょっとしょっからいなというくらい。わりと思い切っていれていい)パスタが太め(1.6mm)で茹で時間が10分とかの場合はブロッコリはパスタのあとにいれてもいいかもしれません。

これを食べると元気になります。一人でブロッコリ一房いくときはパスタは50gとかでも食べがいのある一皿になります。

2011/05/25

やっぱり自分でつくるサンドイッチは最高。
人に食べさせるのは、もっときどって凝ったつくりにしちゃう。
自分用は荒い千切りキャベツを塩でもんでオリーブオイルであえただけのものが具になる。キャベツバージョンとニンジンバージョンがある。
きょうは豪華に、手作りマヨとサラミもはさんだ。
キャベツは二枚のパンに挟める限界を。よくスーパーでキウイつめほうだい500円とかあるでしょ、あの感覚で。

2011/05/11

About Face

今、読み終えました。

読み終えるまでは訳者とは話すまいと決めてとりかかりました。

長い旅だった。沢山の言葉と文字と話が詰め込まれていて、見た目の大きさ(厚さ)からするよりもずっと長い旅だった。
ジョナサンも何度も旅という言葉を使っているけれども、私も旅をしていた。
もしかしたらだけど、それはネバーエンディングストーリーのようだった。ジョナサンが人々を訪ねる旅、訪ねられた人々の旅、それを英語から日本語に訳す訳者の旅、それを読む私の旅、そうやって、いくつもの視点が私の前に存在していることを感じていた。ネバーエンディングストーリーでは少年が本を読みながら、お話の中に入っていく、それを私たちが読むように。

本を読み始める前。
展覧会が終わって、事態の整理や処理を気持ちの上で行えなかった。展示方法も、あんな風に見てもらうことも初めてだった。それを自分の中で処理できない。
フィードバックをもらえたり、もらえなかったりした。
いいねと言われてうれしいという気持ちと同時に、まだ存在しているどうしても振り切る事のできない出来事、動けない記憶の場所、何度も反芻しては強化してしまっている感情があった。
私は、その感情を捨てる決心をした。
なぜなら、どんなに作品をつくっても展覧会をやっても、充実感があっても、仲間とお酒をのんでもその感情はなくならないんだと知ったから。
すごくハッピーなことがあったら忘れられるとかいう都合のいい足し算引き算にはなってなくて、これはなくならない。
だから、意識的に捨てるべきなんだ。この決意がいいとか悪いとかはわからない。ただ、そう思った。できなかったらまた考える。

けれどもやっぱり捨てるのは容易ではなくて、本を読みながら、私はドナの言葉をかりながら、振り切る事のできない出来事をまた参照し、自己弁護した。
また、メビウス症候群の人々のところでは「顔」という言葉を「作品」に置き換えてみたりもした。(もちろん「顔」としても読みながら)
自分にとって表現とは、というところにどこか接触するように思えた。
読んでいると訳者である友人のの言葉がときおり、降ってくるのだった。2年の間たくさんしゃべったから、あのときこんな事いってたな、とかこんなこと話したな、とか。私はそこここに彼女をみつけた。例を挙げようと思ってページの端を折ったつもりが今見つからないので、具体的には挙げられないけれども。すごくささいなところ。でも彼女の感性(というか、信念?)によって導きだされた訳なんだ。
あとがきにもあるけど、それらは彼女の中心の問題でもあるからこそ、ジョナサンの先にいる人の言葉がこちらがわに届けられる言葉になったのだと思う。それは読者にとっては幸福なことだ。私は彼女と会話をしている時のような気持ちになったし、特別な人の話であると同時にすべての人がどこかで持っている問題として、自分の問題として読んだ。

それから2年間この文章に寄り添い続けた、私の知らない彼女の時間。人の時間。

わたしは今日、ヨガからの帰り、少しだけ体調がよくなって(微妙に風邪をひいてた)、本の影響もあり、踊るように歩いてみた。(ちょっとへんてこだったかも)

2011/05/09

可能

FOILでシンツボさんの写真見た。「可能」という言葉が浮かんだ。それから屋根のようなまつげ。ファサードのようなまつげ。
作られた音の風景もあった。録音された音を再構成し、また、ツイッターによる投稿と連動して音自体が進化するということだった。わたしは分からなくなった。分かっているつもりが、わからなくなった。それだから、これが視覚に置き換えられたらというバージョンを想像した。想像されたものはMTMとはちがう様相だった。

2011/03/23

チーム

過去の自分と今の自分はつながってるけど、目の前の友人に比べたらずっと遠いところにいる「誰か」のようだ。

今、作品を作ろうとしている。

作品というと何か、クリアなまとまりを思い浮かべる。私は単純な作品をつくる傾向がある。

今の私には何かひとつ壮大なモノを作る技術も根気も資金も時間もない。
いや、ないというのではなく、私の生活はそれらを手に入れるため努力をしていないので、壮大なモノはつくれない。

さて

私は今の私にできることをやればいいのかもしれない、と本気で思い始めている。
それでいいと、友人は言ってくれる。楽しみにしている、と。
友がそういってくれるのは安心する。けど、本気で、というのは、友がそういってくれるからではなくてそれがベストである道筋がみえたということでもある。思い始めた、けれど、まだ少し迷いがある。少し進んでは迷う。
それがベストでないならばやってはいけないからである。

私は作品というものを人にあまり見せてこなかった。どうしても、作品は恥ずかしいもの、だった。
恥ずかしいのがいやだからシステマチックでクールであればいいと思うが、恥ずかしさから逃れる為にシステマチックな様相を呈している作品というのは、本当のシステマチックから創造している作品に激烈に劣るのだ。
それはわかるんだ。

私はなにも見せられなかった。

この一か月以内に私は見せる場所を持つことになる。
その場所をどのようにしたらいいのかをずっと考えている。
考えた結果、私の手助けとなるのは、今の私、そして過去の私だった。過去の私のやったこと、未来を考えずに身体が反応してやったことの痕跡がかろうじて残っている。本当にかろうじて、だ。恥ずかしいからだけでなく、表現としてもそれらは脆弱で表にだすクオリティに著しく欠けていると判断されたモノたちだ。でも、それらを何度も何度も見返すと、確かに何かを行為しているのだった。美しいシステムではないけれど、一貫してやっているのだった。ああ、これは今の私だから見える一貫であって、それならば、これをなんとか、なんとか、見てくれる人に伝えることはできないだろうか。私の物語として伝わるんじゃなくて、私を通過してでてきちゃったモノたちの法則が伝わるように、できないだろうか。

私同士のコラボレーションになる。
ちゃんと「投石」というタイトルにふさわしく、思える。

それぞれのパーツをそれぞれの私が負ってくれる。
今の私はそれぞれやそれぞれをチューニングすることが仕事だ。
「チーム私」のリーダーだ。

2011/02/14

世界の全部

プレゼントを選んでいると、あれもこれも、贈りたくなる。一つに込める事ができずに、あれこれ、そしてしまいには世界のすべてをおくりたいのかもしれないと思う。そんな風に思える人に出会えた事、しあわせだ。

2011/02/13

おくりもの

不在という贈り物を届けます。
それから、これに「軌道」と名付けていることをもう一度、確認します。