2011/05/25

やっぱり自分でつくるサンドイッチは最高。
人に食べさせるのは、もっときどって凝ったつくりにしちゃう。
自分用は荒い千切りキャベツを塩でもんでオリーブオイルであえただけのものが具になる。キャベツバージョンとニンジンバージョンがある。
きょうは豪華に、手作りマヨとサラミもはさんだ。
キャベツは二枚のパンに挟める限界を。よくスーパーでキウイつめほうだい500円とかあるでしょ、あの感覚で。

2011/05/11

About Face

今、読み終えました。

読み終えるまでは訳者とは話すまいと決めてとりかかりました。

長い旅だった。沢山の言葉と文字と話が詰め込まれていて、見た目の大きさ(厚さ)からするよりもずっと長い旅だった。
ジョナサンも何度も旅という言葉を使っているけれども、私も旅をしていた。
もしかしたらだけど、それはネバーエンディングストーリーのようだった。ジョナサンが人々を訪ねる旅、訪ねられた人々の旅、それを英語から日本語に訳す訳者の旅、それを読む私の旅、そうやって、いくつもの視点が私の前に存在していることを感じていた。ネバーエンディングストーリーでは少年が本を読みながら、お話の中に入っていく、それを私たちが読むように。

本を読み始める前。
展覧会が終わって、事態の整理や処理を気持ちの上で行えなかった。展示方法も、あんな風に見てもらうことも初めてだった。それを自分の中で処理できない。
フィードバックをもらえたり、もらえなかったりした。
いいねと言われてうれしいという気持ちと同時に、まだ存在しているどうしても振り切る事のできない出来事、動けない記憶の場所、何度も反芻しては強化してしまっている感情があった。
私は、その感情を捨てる決心をした。
なぜなら、どんなに作品をつくっても展覧会をやっても、充実感があっても、仲間とお酒をのんでもその感情はなくならないんだと知ったから。
すごくハッピーなことがあったら忘れられるとかいう都合のいい足し算引き算にはなってなくて、これはなくならない。
だから、意識的に捨てるべきなんだ。この決意がいいとか悪いとかはわからない。ただ、そう思った。できなかったらまた考える。

けれどもやっぱり捨てるのは容易ではなくて、本を読みながら、私はドナの言葉をかりながら、振り切る事のできない出来事をまた参照し、自己弁護した。
また、メビウス症候群の人々のところでは「顔」という言葉を「作品」に置き換えてみたりもした。(もちろん「顔」としても読みながら)
自分にとって表現とは、というところにどこか接触するように思えた。
読んでいると訳者である友人のの言葉がときおり、降ってくるのだった。2年の間たくさんしゃべったから、あのときこんな事いってたな、とかこんなこと話したな、とか。私はそこここに彼女をみつけた。例を挙げようと思ってページの端を折ったつもりが今見つからないので、具体的には挙げられないけれども。すごくささいなところ。でも彼女の感性(というか、信念?)によって導きだされた訳なんだ。
あとがきにもあるけど、それらは彼女の中心の問題でもあるからこそ、ジョナサンの先にいる人の言葉がこちらがわに届けられる言葉になったのだと思う。それは読者にとっては幸福なことだ。私は彼女と会話をしている時のような気持ちになったし、特別な人の話であると同時にすべての人がどこかで持っている問題として、自分の問題として読んだ。

それから2年間この文章に寄り添い続けた、私の知らない彼女の時間。人の時間。

わたしは今日、ヨガからの帰り、少しだけ体調がよくなって(微妙に風邪をひいてた)、本の影響もあり、踊るように歩いてみた。(ちょっとへんてこだったかも)

2011/05/09

可能

FOILでシンツボさんの写真見た。「可能」という言葉が浮かんだ。それから屋根のようなまつげ。ファサードのようなまつげ。
作られた音の風景もあった。録音された音を再構成し、また、ツイッターによる投稿と連動して音自体が進化するということだった。わたしは分からなくなった。分かっているつもりが、わからなくなった。それだから、これが視覚に置き換えられたらというバージョンを想像した。想像されたものはMTMとはちがう様相だった。