2011/03/23

チーム

過去の自分と今の自分はつながってるけど、目の前の友人に比べたらずっと遠いところにいる「誰か」のようだ。

今、作品を作ろうとしている。

作品というと何か、クリアなまとまりを思い浮かべる。私は単純な作品をつくる傾向がある。

今の私には何かひとつ壮大なモノを作る技術も根気も資金も時間もない。
いや、ないというのではなく、私の生活はそれらを手に入れるため努力をしていないので、壮大なモノはつくれない。

さて

私は今の私にできることをやればいいのかもしれない、と本気で思い始めている。
それでいいと、友人は言ってくれる。楽しみにしている、と。
友がそういってくれるのは安心する。けど、本気で、というのは、友がそういってくれるからではなくてそれがベストである道筋がみえたということでもある。思い始めた、けれど、まだ少し迷いがある。少し進んでは迷う。
それがベストでないならばやってはいけないからである。

私は作品というものを人にあまり見せてこなかった。どうしても、作品は恥ずかしいもの、だった。
恥ずかしいのがいやだからシステマチックでクールであればいいと思うが、恥ずかしさから逃れる為にシステマチックな様相を呈している作品というのは、本当のシステマチックから創造している作品に激烈に劣るのだ。
それはわかるんだ。

私はなにも見せられなかった。

この一か月以内に私は見せる場所を持つことになる。
その場所をどのようにしたらいいのかをずっと考えている。
考えた結果、私の手助けとなるのは、今の私、そして過去の私だった。過去の私のやったこと、未来を考えずに身体が反応してやったことの痕跡がかろうじて残っている。本当にかろうじて、だ。恥ずかしいからだけでなく、表現としてもそれらは脆弱で表にだすクオリティに著しく欠けていると判断されたモノたちだ。でも、それらを何度も何度も見返すと、確かに何かを行為しているのだった。美しいシステムではないけれど、一貫してやっているのだった。ああ、これは今の私だから見える一貫であって、それならば、これをなんとか、なんとか、見てくれる人に伝えることはできないだろうか。私の物語として伝わるんじゃなくて、私を通過してでてきちゃったモノたちの法則が伝わるように、できないだろうか。

私同士のコラボレーションになる。
ちゃんと「投石」というタイトルにふさわしく、思える。

それぞれのパーツをそれぞれの私が負ってくれる。
今の私はそれぞれやそれぞれをチューニングすることが仕事だ。
「チーム私」のリーダーだ。