2012/10/30

おばあちゃん

おばあちゃん、元気ですか。
今どうしてますか。

さっきふと、「どこへいくんだからわからない」といって不安そうにしていたおばあちゃんの、本当に多分ちょうど一年前のおばあちゃんの様子を思い出して、わたし自分の今の状態がまさにそんな感じだなあ、って思ったよ。
おばあちゃんはどこかにいくのは知ってて、それがどこなのかどうやっていくのかまったく手がかりがなくてこわくて不安でどうしよう、っていう感じにはわたしには見えたの。でもここにとどまるわけにはいかないっていうこと、前にももどれないってこと。先にすすむしかない。お休みしててもいつかはね。
それで、11月にはいって、よしいこう、って決めたんだよね。すごくすごくつよくてえらくてわたしは感動したよ。少女のおばあちゃん。
今日ね、思い出したのは、わたしも今そうなの。会社やめてこの愛する家をでなきゃならないの。いつかはね。どこへいくんだか、どうやっていくんだかわからないの。でも、いくことは知ってるの。おばあちゃんどうやってその一歩をふみだしたの?
その先はどうだった?

死と生きる事がどれだけちがうんだろう。
生きる事の中にも死に似たものはたくさんあって、それは決していまわしいものではないように思ったよ。

わたしもおばあちゃんの決心でここをでるよ。
冒険だよ。
死は冒険のひとつのようにみせてくれたおばあちゃん。
生きてるあいだにその決心の練習してみるよ、わたし。

あと数時間でおばあちゃんの誕生日だよ。
おめでとう。98さい。


2012/10/28

おじょうさん

鼻に花びらがくっつくくらい、抱きかかえるように香ってみる。
この花の香りをなんとたとえたらよいのだろうか。
わたしはこの香りを覚えていられるだろうか。

わたしのとても大切な人がわたしのとても尊敬する人のところまでてくてく歩いてわたしの為に花を選んでくださいと言いにいったのだそうだ。尊敬する人の尊敬する仕事ぶりによって選ばれつつまれて、大切な人によってわたしの元に運ばれてきたその花の姿に、とてもおそるおそるではあるが自分の姿を重ねてみようと思いついたのは、そうやって大切な人がわたしを思ってくれることで起きたことやもたらされたものを十分にあじわい受け取るにはわたし自身がわたし自身についてもっとよい風に思ってあげないとなのかもしれない、という考えがかすかに発生したのを発見したからだ。

うぬぼれではなくって、自分を誇りに思うということはとてもとてもむずかしくてわたしはいい歳してそれが全然できない。でも、人から自分に向けられた祝福をうけとるときにその祝福が存分に作用するためには自分自身による祝福もまた必要なのかもしれない。自分で自分のことを祝福されるべきものと思っていなかったら相手の投げてくれた祝福は存分には発揮されないのかもしれない。そしてそれはやっぱり受け取りということに関してずさんで失礼である。そのことにようやく気がついたのである。なにごともちょっとずつである。

こくもうすくもないきみどり色にブルーの入ったところをむらさきの入ったところのある、全体としは一つのまとまりのある色調で、そして一つで森のようにこんもりしている。かたまりには厚みがあってゆたかだ。しおれているところもあれば瑞々しいところもある。ドライのように見えるけど今は水分も含んでいる。ドライになってももしかしたら色は保たれるかもしれない。花びらはとてもうすくて、紙のようだけれども触るとひんやりしっとりしており、香るとさわやかに甘い。

どんな自分になりたいか、

くだらないかもしれないけれども今の時代の私たちは(もしかしたらいつの時代のわたしたちも)考えるし、あこがれの像を頭においてそのようにすてきになりたいなどと考えるものである。はずかしながらわたしだって少女漫画的にそのようにかんがえる。

そのあこがれの位置ににこの花の姿を置いてみようと思う。
そんな風になりたいな、と思う事を許可してみようと思う。