2015/09/17

2004年以来のゆびきり

ネットで強行採決の映像をみてた。
全然おこっていることの内容がわからなくて、一応いろんなことを述べている人たちの情報を集めてた。
パンでも食べてヨガの備えるか、と思って、冷凍したライ麦パンをだした。
このパンはあらかじめスライスしてあって、そのまま凍らせるとお互いくっついてしまうのは知ってた。でも叔母にもおなじものを買ってあげてて(いま叔母はパンがすきなのだが、闘病中なので白い小麦粉は避けてて、全粒粉100%とかそれに準じたものをわざわざかって食べる)、「このまま冷凍するとくっついちゃうよね〜」と言ったとき、彼女が「包丁を間にいれれば簡単にとれるわよ」といったのだった。それで食べる前、案の定くっついたパンの間に包丁をいれた、瞬間、

包丁はパンを突抜け、気付いたときには自分の指を刺して切っていた。

あまりにも瞬間的にこれはまずい!とおもったので切り口をまじまじとみることもせず、とりあえずふさぐ。ティッシュでおさえる。冷や汗がでる。

これは、やっちまった。あまり考えたくないが、かなりやっちまってる。
床に血が飛び散っている。

救急箱もないし、絆創膏ひとつももってない。
とりあえず、これは病院だ。

一番近くの病院は休診日
二番目のところは受付終了。でもわたしの様子をみて、どうしようもないという気配をさっしてくれたのか、看護師さんが待合室にでてきて止血をしてくれた。彼女がはじめ、まず指が曲がるかどうかを確認したり(神経のチェックかとおもう)患部をみて「深いかも」「テープじゃだめで縫うかも。でもそれは先生にみてもらわないとわからない」といったのだけど、次第に血のでる勢いがおさまってきたのと患部をもうすこしよく点検して「血がとまってきたから大丈夫そうだけど、心配なら救急外来に言った方がいいかも」といって駅のそばのもっと大きい病院の電話番号を教えてくれた。

救急外来につくことには大分気持ちもおちついていた。
さっとおわれば予約していたヨガにいくつもりだったが大分待たされてしまい、ヨガは断念。お医者さんが見てくれるころには出血もだいたい止まって処置も軽くて済んだ。

帰りにゴムてぶくろやら透明の防水テープやら買い込んで、たこ焼きとビールでこころを落ち着けて、本屋にいってくだらない本をたちよみしたりして一生懸命心をなごませて家路についた。

つかれてしまった。

2015/09/10

2005年の梅

瓶のふたには「H17」と書いてある。実家の荷物置き場に無造作においた梅干しの瓶の中から見た目の良さそうなものを取り上げた。まあ、これでいいか、と。

ジップロックにうつす。梅酢がゼリー状になっている。調べるとどうもこれはペクチンの作用だとかなんだとか。うまくできた梅干しだから、きっと大丈夫。
一口かじるとなんともいえない甘みと酸味がある。練れた味。酸っぱいんだけど熟成しててまろやか。帰宅した母にもひとかじりさせてみた。母はジップロックに全部詰める私に向かって「それ全部もっていっちゃうの?」と訊いた。「うん、まだあるし」と何の気なしに答えたが、あとから気付いた、あれはきっと家用にもちょっととっておいてほしいなっていう気持ちだったのじゃないかな。H17の瓶からは全部つめてしまった。

とにかくその梅は闘病中の叔母の元へもっていかれた。
数年前、叔父の闘病中にだったか、梅干しをあげようか?と訊いた時、「塩分は?」「うちは塩分の薄いのしかたべられないの」とお断りされてから、梅干しの話は出さないようにしていた。うちの大切な娘にケチつけるところには嫁にはだせん、という気持ちだ。ところが先日叔母の食べていた梅干しがなくなって、買う段になったら気に入ったものが見つからず、私の何年ものかの梅干しが実家にあるというと、持って来てほしいとのこと。実は前回実家に帰ったとき、疲れていて「忘れたことにしよう、次回でいいや」と持ち帰らなかったのを、叔母が、「梅干しは?梅干しは?」と聞くので、仕方がない、もっていってやるか、という気になった。大切にしてくれるならお嫁にやってもいいか。

味は上々。さすが10年ものである。自画自賛。

実家から叔母の家に戻ってきて夜の分の里芋パスターを練って貼って、今日のお仕事は終わりという時分になって梅干しをだした。好みのはっきりしている叔母なのでもし嫌いだったらあげないでおこうと思ったが、どうやら気に入ってくれた。「これで玄米を食べるのが楽しみになっちゃう」。うれしかったし、誇らしかった。

帰り道、スーパーへの道すがら、思い出したのだが、あれは単に10年ものの梅なんではない。2005年の6月下旬〜7月上旬、あのとき私は人生で一番ぽわわわんとしていた。当時の幸福な気持ちを思い出した。それから、その後にあったいろいろを思い出した。「その10年」があの梅干しの中に入っている。私のかけがえのない10年が叔母の養生の為に使われることになろうとは。そんな特別な尊い梅干しだから、幸福の元に漬けられた梅干しだから、酸いも甘いも傍らで経験した梅干しだから、でも結果的には私は元気で幸福でこうして生きている、その始まりの時間を共にした梅干しだから、きっと叔母の身体にも効くんじゃないかなあ。非科学的だけどそう思う。


2015/05/13

日本では亡くなったらその日の内に葬儀屋を呼んで遺体にはドライアイスを当てて夜にはお線香を枕元で挙げられるようにしつらえられる。早ければ翌日にお通夜、翌々日に告別式、その後火葬されてしまう。なんてスピーディー。

おばが突然亡くなって数日後、友人からインドネシアのトラジャの葬儀について話題になっているツイートがあるとメールが来た。

乳児の遺体は樹木の穴に安置されやがて樹木が遺体を取り込む方法や、自分にそっくりな木像を生前に用意して亡くなったらそれを村を見下ろす場に置く、なんていう方法。

葬儀には1年〜5年費やす場合もあるらしい。

亡くなったばかりのおばは本当に生きていないのが不思議なくらいだった。今まで見たことのある遺体は時間がたっていたからか、もう生きていない、物みたいな感じが強くしたけれど、息をひきとったばかりの遺体はまだ血色もよく皮膚もやわらかく生がそのまま続いていない方が不思議だった。葬儀場の関係で葬儀まで一週間あったのは不幸中の幸いだったかもしれない。突然すぎたので、お別れには時間がいる。次の日には灰になってしまうのではやりきれない。

葬儀業はなくてはならない職業だし、これからもっと必要になってくる。ビジネスライクにスムーズにすすめられることは大事なことではあるとおもうけれども、今後の日本で、意外とゆっくりとした送り方、伝統的なやりかた、というのも見直されてくるかもしれないとふと思った。エコ、有機農業、スローライフ的な生活に価値を見出す人々が死を迎えるとき、どのような送り方を選ぶだろうか?彼らは伝統的な方法を見直すか、そうでなくても葬儀産業によって送られることを拒むかもしれない、と。

私たちの親が子供だった頃はまだ昔の風習が残っていたようだからそれらはまだぎりぎりつなげるのではないだろうか。げんに、おばの出身の佐渡での風習をきくと、それはわたしにとってはめずらしいものであった。棺とともにお茶碗を地面に投げつけて割るとか銅鑼がなり続けるとか。そうはいってもそこで97年の人生を全うした祖母は極めて現代的で一般的な葬儀をあげたのだから、時代はわからない。けれども近い将来、今の一般的な方法の一方で、より伝統的な方法にを見直す人がでてくるような気がしている。