2009/03/25

ゼラチンシルバーLOVE

ゼラチンシルバーLOVEの中で、永瀬正敏が食べていたあまりおいしくなさそうなミートソースが食べたくなって、帰りにスーパーで105円のカゴメミートソースのカンズメを買って帰る。

トマトとニンニク、バターを足したところで大して味は変わらないし、ミートのかけらがみつからないけどミート味のスパゲッティ。あつあつって所だけポイント。ナポリタンぽい。

映画は久々に眠ってしまいそうだった。
本やによって、多和田葉子の新刊と三砂ちづるの本と買う。多和田さんはよみたかったもの、でも今すぐよまないかもしれないもの、で、三砂さんは帰りの電車の中でにやにや(にっこり?きもい・・)しながら読みはじめました。

2009/03/17

俺があいつであいつがおれで

メモ:
よくある男女入れ替わり物語について。
筑波のロボットについて。
恩蔵さんの化粧研究について。
バーチャルリアリティ訓練後の自己像について。

2009/03/15

おいしかった。

2009/03/10

寿司

今日バイト先で友人にきいた話。

シベリア抑留中のひもじい日本人がどうやって生き抜いたか。
寿司職人だった人がいて、その人が「今日はなにを握るかい?」「俺、中トロ!」「俺は鯛!」
とかいって、架空の寿司を食べて満足して、楽しんだ人たちは生き残ったんだって。

つらい現実を
「なんでこんことになっちまったんだ?」「ここから抜け出すにはどうしたいいんだ?」
と考えるんじゃなくって、
「寿司といえば、そうだなあ、この季節なら新子か?」
なんて空想して、にやにやしている人が生き残れる。

その場が楽しいこと、そうなるための工夫、生きるために最も必要なもん。

2009/03/09

ころされること

ころされたことに気づかないと成仏できない。
それが実感として理解できたのが、昨日。そういうことってきっとある。

中に立つ、参加する

WBCの初戦を観に行ったのでその後のテレビ中継も今までと見る目が変わってしまった。
その中に立つといろいろ違う。
実況がない、解説がない、あたりまえだけど画面に縛られないからどこを見るのも自由。そして、応援の波の始まり方が見える。テレビでは単なる歓声なのにその一粒一粒が聞こえる。
サッカーよりももっとずっとそれらが新鮮だった。

アメリカも野球は人気スポーツだけれどきっと応援の感じなんて全然ちがうんだろうなと思った。けど、日本は日本で野球がとっても民族的に相性いいんだろうな。

野球だけじゃなくって、その中に立つこと、参加することでメディアの層が一段階素材に近くなる。メディアはパッケージであって、それはそれでとても心地よいものだけどパッケージされない部分はその中に立つことでもう少しだけ見える範囲が広がる。

人生の中でパッケージされたもの以外を見られる分野なんてすごく限られているだろうけれど、自分の見てるものはパッケージであること、そのパッケージをつくっている人たちの情熱を敬うこと、パッケージされない生ものがあること、に思いを馳せることで楽しみも3倍くらいになるよね。

2009/03/05

背骨は無駄につかうな。

叔母は東京でヨガの先生をしている上に、最近は卓球にはまって週5日は卓球をしているらしい。65歳で体脂肪率15%、さすが、ツワモノぞろいの我が親戚軍団のおひとりである。
このあいだ高知に入院する叔父の見舞で叔母に会った時、前屈がうまくできない旨を相談した。
私の動きを見てもらって改善方法のポイントはふたつ。

背骨の使い方と膝裏の伸び。

背骨は前にバレエを長年やっていたという恩蔵さんからも指摘された通り、胸を張りすぎている。腹部も前にですぎている。
それによってもともとS字である背骨が腹側により多くつかわれることになるため、お尻(骨盤)の部分の背骨がちぢんでしまう。背骨をどの部位にどのくらい配分するかで肉のつき方や体の形まで変わるらしい。腹部の前傾をなくせば腹部の湾曲の為に割いていた背骨を骨盤部分に使えるから骨盤が稼動しやすくなり前屈の為の余裕が腰にできる。今までの姿勢では背骨を無駄に使っていたのだ。

膝が伸びきらないのは半分は遺伝だそう。バレリーナがバーの上に片脚をのせてのばすみたいな動作を日頃からやっていけば伸びていくそうだ。

この背骨と膝裏の伸びによって憧れのぺたんこ二つ折り前屈が私でもできるようになる、と言われたのでがんばってみよう。

2009/03/04

雪の日

ふるふるという存在があって、つまり、うつろっているのだ、と思う。
おそらくずっと、うつろい続ける。それは広域を移動するイメージではなく、
なんていうんだろう、表面がゆるいジェル状のものでできていて、それがふるふると揺れる感じだ。ふるふると揺れるが同じところにとどまっている。とどまって見たいものがあるのだと、いう。ゆれているからいつでも違うように見えるけれど、実は同じものをふるわせているだけだった。どうしてもその同じふるふるを通して覗き見、手に入れ、支配し、俯瞰し、制覇したいものがあるのだと、その野望はふるふるの柔らかさに似合わず豪傑な感じのするものだった。ふるふるはがんとして動かないのだった。なぜならばふるふるの内部はいつでもはげしい対流がおこっているから、動く必要はないのだ。ふるふるの対流を恐れて近づかなかったある人が、ある日ふるふるに触ってみたらふるふるだけに粘着するのだった。それでふるふるがふるふるゆれるとき、ある人のこころもふるふる同調してしまうのだった。粘着、と簡単にいうけれど、それは不可逆的なものであり、くっつく-離れるを繰り返せるたぐいの粘着ではなかった。くっつく=獲得するということなのだった。あるいは知ったものを知らない状態には戻せないということ。知るは知らないを捨てるということだった。ある人はふるふるを無視することはもうこれ以降できなくなった。ふるふるゆれる様はある人をゆれさせる。ある人はゆられながら、ふるふるを恐れたかつての日々をすっかり忘れ、いちいちのゆれを初めての体験だ!だ、と関心した。しかしある人はよろこんでもかなしんでもいなかった。そして特に不快でもなかった。見るとほかにもたくさんのある人がふるふるにくっつき、ゆれに同調し、目を閉じて笑っていた。

2009/03/02

備忘録

2月24日
ICCへ。カメラルシダ見れず。
いい展覧会だと思うけれど、もっとさらりとあったらすてき。
作品の覆いがなくなることですてきになるものってもっとたくさんある。
でも覆い=カテゴリー化、分類化によって世界は見やすく。大規模化への道、か。
夜はカナルカフェへ。小雨のふる川面に電飾がうつって旅行にきたみたいだねって良子さんと。
「あの女検定」のアイデア。あなたのそばのあの女について。

2月25日
見られなかったカメラルシダを見に、朝ICCへ。
水で満たされた球体、暗闇、波が光に。見えているもののスケール、私は何を見ていたのか。
その後、和光市へバイト。うちのテレビは主電源を切ってないと突然つくことがあるのだが、その原因について3名のカガクシャ様たちが議論した結果、リモコンの誤動作という結論に。霊でも斧をもったおじさんでもない、です。
一度帰宅してもろもろ準備し、新宿へ。21:30発高知行きバスに乗り込む。

2月26日
8:00高知駅着。寺田寅彦、高知城、木曜市
→特急で中村へ。
→バスで清水バスセンター下車
→プラザパルの本屋で立ち読みしているとこを、叔父に見つけられる。
→お散歩
→食事

2月27日
朝食→叔母とおしゃべり→鹿島神社お参り→ポミエのサンドイッチ→昼食→問診→サンドバス10分2500円→ともこちゃん迎えに→散歩→夕食

2月28日
朝ヨガ→朝食→サンドバス→鹿島神社の御神輿にくぐってもらう→ポミエの帽子パン→昼食→タクシーで足摺岬へ→戻ってお祭りのクライマックス→旅館でみんなでおやつを食べる→外食→おしゃべり

3月1日
朝ヨガ→朝食→9:40発のバスで中村へ→レンタサイクルで佐田沈下橋へ→農協でお昼かって→電車で昼食→高知着→日曜市→土佐ジロー卵焼き、窪川牛スジおでん、ビール→喫茶店ではがき書いたり→20:00発のバス

3月2日
7:00新宿西口着