2009/12/13

遠くの定まった一点について

友人は私にとってはとても大切で、私は本当のところ、恋愛というものがそれと比べてどうなのかというのがよくわからない。
いや、友人だから大切、恋人だから大切、家族だから大切、という線引きの意味はよくわからないと言った方がいいかもしれない。つきあうとか結婚とかそういうものにすっと入り込めないのはわからないという気持ちが強いからなんだけど、そして、人と話すとそれがあまりにも自然に行われてることに不安になるのだけれど、きっとそれはどちらでもいい事で、その人たちにとっても私にとっても同じに言えるのは、人が他人と関係を持つということはなんて尊いことだろうか、ということだ。

先ほど友人のブログを読んで、私は、書いてある内容に近いことを彼女とメールをかわしたのにもかかわらず、涙が流れてしまった。
言葉について、そして、遠くの友人について。

今年の五月に私は里親というものになった。
チベットの少年ロサン・ティンズィン君。
中学校に通うためのお金を振り込んで、一度だけ手紙を書いた。日食が見られるね、という話と、日食眼鏡を送った。言葉は中国語のできる友人に訳してもらった。
10月に、彼の写真と、里親活動のNPO団体からの手紙がきた。ロサンくんは写真を撮ったあとすぐに、カミナリに打たれて亡くなったという。

知らせを受けた時から今まで、彼が生きている事と、亡くなってしまったこと、その違いについて私はあまりうまくイメージすることができなかった。
ただ、チベットという名の知っているようで知らない、風景も位置も正確に思い浮かべる事もできない抽象的な距離の遠くの向こうに、自分が関わりをもった一点がある。それが、場所も時間も、カミナリという空と地上の間に電気が走るイベントによって固定されたような、そんな一点のイメージだけがある。そしてその抽象的な一点に私はロサンくんの死という名前をつけているかもしれない。

なぜ涙がでたのかは本当にわからない。
悲しい、というのでもない。
けれど、彼女の言葉が時空を超えて、遠くの誰かに届くことをとリアルに思った瞬間、私が彼に向けて差し出した、ものすごく曖昧で自分でもなにをしたかったのかわからないことも届いたと思ってもいいのかもしれない、と思った。