2008/09/13

for maria

演奏者は演奏している時、音と対話しているのだというあたりまえの事を
初めて実感したように思った。
対話という言葉は後付けで、
絵描きが線を引くとき、色をのせるときに
絵全体に対して駆け引きしている時の感覚とも重なる。
演奏者のその対話する姿は、巫女のようにトランス状態にあるのではなく、
むやみに情動的なのでもなく、こちらの世界にいて、音も聞いていて、
亡き人に語りかけているようでもあり、かつ、演奏をよきものとして完遂させるべく細心の注意を払っている。
いずれにしても、さらりとやりのけていることの全てが、簡単にできることではない。

万葉集の長歌もバッハも、時代は違えど、今の私達からみれば、遠い時間を経て存在しているもの。
これまで幾人の人が亡くなった人を思い、気持ちを慰めるためにそれらを諳んじたか、演奏したか、と思うと
この日の演奏にはそれら別の時空間も付随しているような、
全く別の時代のどこかの誰かと空間を共有しているような気分にもなる。
芸術の役割というものはこのようなものなのだ、と思う。
時代を超えて存在する作品と、それらを今ここの条件の元に再び存在させることを選ぶアーティスト。
両方があり、それを受け取る我々がいる。

ATAKが用意してくれた空間は優しく、技術は高く、
私は観客として完全にリラックスした状態で
マリアさんと初めてあった時のことや、
その後何度か会ったときに感じていたマリアさんが持つ感触、
言葉にするとしたら、
毅然としているかと思えば、ふとした瞬間にひんやりときめ細かくはかなくふわりと笑って
そばにいるこちらにかすかに体が傾けられてくるような、
その感触を
何度も何度も思い出した。
思い出すことと演奏と映像と空間が全部一体になったところを私は体験させてもらった。

--

■川島皇子の殯宮の時、柿本朝臣人麿が泊瀬部皇女に献れる歌一首、また短歌

飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 
生ふる玉藻は 下つ瀬に 
流れ触らふ 玉藻なす 
か寄りかく寄り 靡かひし 
つまの命の たたなづく 
柔膚すらを 剣刀 身に添へ寝ねば 
ぬば玉の 夜床も荒るらむ そこ故に 
慰めかねて けだしくも 
逢ふやと思ほして 玉垂の 
越智の大野の 朝露に 
玉藻はひづち 夕霧に 
衣は濡れて 草枕 
旅寝かもする 逢はぬ君故

■反歌
敷布の袖交へし君玉垂の 越智野に過ぎぬまたも逢はめやも