2008/09/24

茗荷谷の猫

千石に住むようになってはや5年。
3月からは茗荷谷に勤めている。

先日生活圏にあまりにもマッチした小説を購入。
「茗荷谷の猫」木内昇
染井、巣鴨、本郷、菊坂、切支丹坂、四谷、茗荷谷…
時代がゆるりと移り変わる中に確かにいただろう人々、
確かにあっただろう感情、日常。今と変わんないな、と思う。

今朝、いつも歩いている道に小説にでてきた猫又橋跡の
看板をみつけ思わず立ち止まってしまう。

この街は偶然に移り住んだのにもかかわらず、私はすごく好きなのだ。


昨日は本牧の三渓園へ。
原三渓のつくった180万㎡の庭園。
霧やくもの糸のようなものがひんやりとした秋にピッタリであったが
どうしてもものいいを付けたくなる出来事があり、疲れてしまいました。
作品と観客がどう出会うかについて、作家を越えて、運営者のできること、
すべきことについて考えがいく。
○○だから、、といろいろ一つのことをあげて
不案内な理由を語る立場はわかる。でも、
そこは怠けてはいけない場所なのではないかと思うのだ。
それは美術だけではなく全てについていえるけれど、とりわけ
丁寧であるべきだろう美術において、丁寧さよりもさかしさが上回って
がっかりした気分になる。
出来るだけ作品の持つ情報を外からの情報によって壊さず
観客が作品と出会えるようにセッティングするのが運営者の役目で
それは「案内をひかえる=案内をしない」という単純なことではなく
いかに自然に観客が作品に到達できる導線が引かれてあるということ
ではないか。
決して特別に親切にしたり、仰々しい案内をすることなくそれをやってのけるのが
運営側の腕の見せ所ではないだろうか。
そんなことをつらつらと作品鑑賞中に考えさせてしまうだけであなた方の取った
この方法はすでに失敗だと、思う。