2009/01/31

自分の言葉でしゃべる

今日はみゆきちゃんとふじぽんと3人で夕食をとった。
ふじぽんはとっても忙しいが、11月、12月のうつうつとした時期をこえ、今は張りつめて張りつめて、それでものりこえなきゃいけない山を会社全体でのぼっていることを自覚して働き続けてる。日曜からアメリカへ出張だという。

今日、ふじぽんが、この間の作品の感想をみゆきちゃんに伝えていたことで、とても心に響いた言葉。
「自分の言葉でしゃべるのは本当にむずかしい。けど、それをスタートの時点でやっているかやっていないかというのは大きな違いだ。たとえそれがうまくいってもいかなくても、人に借りてきた方法、知った方法でなく、自分の言葉でしゃべることがどれだけ価値があるのかっていうのを思った。」というようなことを言った。
「わかってしまったらできないことなのかもしれない。見ている人も知らない方法だから、いいとか悪いとか判断できるものではないしね。」

ここでいう自分の言葉、というのは自分で考えた作品の見せ方、ということだ。
彼女の口からでてくる言葉や彼女の書くテキストのことではない。
彼女の頭の中のものを彼女だけのタイミングで、彼女だけのシリアスさと軽薄さと必然によって、彼女だけの方法を行きつさがりつ探し出して人前に提出すること。

私はふじぽんの言葉を聞いて、なんて素晴らしいことをいうのだろうこの人は、と思った。
その通りだと思った。
身体性がなんたらとか、時間感覚とか、インタビューの言葉使いとか、作者性とか、いろいろな方向から取り上げ、語り、批評することは可能だけれど、このふじぽんの言葉以上に私を納得させるものはなかった。

みゆきちゃんがどんな人であろうかなんて私が知れる範囲なんて少ししかないけれど、確かなのは彼女は独自の方法でしゃべろうとしている人なのだということ。
私はそれに手を貸して、彼女独自の方法がなるたけそのままの形で人に伝わるように、彼女と人々の溝をうめていく。
自分の作業はそういうことだった、と思う。

彼女はいつでも全力を尽くしているし、今後もきっと続けていくだろう。
作品の中で彼女は生きている。
世の中に出て行くにはきっとクリアすべき問題がまだまだあるだろうけれど、大切なのは自分の言葉でしゃべること。たとえそれが100%の観客に理解されたり、興行的に成功をおさめたりということが付随しないとしても、しゃべられた言葉は確かにあった。