2009/04/11

メモ

ボンガンドとバカピグミーの発話形式についての話を聞いた。

近代がない、と発言した人がいた。
乱暴なくくりではあるけれど、私たちのすむ世界との対比をしているのだから
言葉の好みの問題だったろう。
さて、私たちの世界はいったいなんなのか。
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分化、分節化した、ということ。
なぜ、アートや表現があるのか。なぜ?
サラリーマンをやっていると、映画はエンターテイメントハリウッドどたばたが欲しくなる。
スイーツ(笑)もちょっとそれににている。
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問いを発する人と問いを発せられる人(問いを受ける人)はもともと同一だった。
分化して、分かれた。
聞き手の膜が私たちの方が薄い。発話に対して無視することができない。
彼らは人の発話に対しての無視ができる。信用、ということも、真実、ということもない。
発話の価値が違う。
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私たちは分化したから、問いかけと答えを対で考えている。対には他者が必要だ。
問う人・問われる人、感じる人・感じない人、感じることを教える人・感じることを教えてもらう人。巫女のような人と巫女にお伺いをたてる人
アートを作る人とアートを見る人。
アートをやらない人がいるから、アートがある。
分化の末の必然として、私たちの世界全体のありよう(先生は共に在る感覚といった)
が形成されたからこそ、芸術、というものが今このように存在する。

洞窟画がなぜかかれたのか、というような芸術の起源とはまた別の話。
個の能力差を社会がどう位置づけていったのか、ということ。

そういうこと、の考えの片鱗のようなものを見たような日。
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このメモは備忘の為。
これもまたかなり乱暴な。