2009/03/04

雪の日

ふるふるという存在があって、つまり、うつろっているのだ、と思う。
おそらくずっと、うつろい続ける。それは広域を移動するイメージではなく、
なんていうんだろう、表面がゆるいジェル状のものでできていて、それがふるふると揺れる感じだ。ふるふると揺れるが同じところにとどまっている。とどまって見たいものがあるのだと、いう。ゆれているからいつでも違うように見えるけれど、実は同じものをふるわせているだけだった。どうしてもその同じふるふるを通して覗き見、手に入れ、支配し、俯瞰し、制覇したいものがあるのだと、その野望はふるふるの柔らかさに似合わず豪傑な感じのするものだった。ふるふるはがんとして動かないのだった。なぜならばふるふるの内部はいつでもはげしい対流がおこっているから、動く必要はないのだ。ふるふるの対流を恐れて近づかなかったある人が、ある日ふるふるに触ってみたらふるふるだけに粘着するのだった。それでふるふるがふるふるゆれるとき、ある人のこころもふるふる同調してしまうのだった。粘着、と簡単にいうけれど、それは不可逆的なものであり、くっつく-離れるを繰り返せるたぐいの粘着ではなかった。くっつく=獲得するということなのだった。あるいは知ったものを知らない状態には戻せないということ。知るは知らないを捨てるということだった。ある人はふるふるを無視することはもうこれ以降できなくなった。ふるふるゆれる様はある人をゆれさせる。ある人はゆられながら、ふるふるを恐れたかつての日々をすっかり忘れ、いちいちのゆれを初めての体験だ!だ、と関心した。しかしある人はよろこんでもかなしんでもいなかった。そして特に不快でもなかった。見るとほかにもたくさんのある人がふるふるにくっつき、ゆれに同調し、目を閉じて笑っていた。