2013/11/14

カルマヨガ

ヨガのTTCではカルマヨガといって、自分たちの宿泊施設の清掃などを当番でやる日を決めていた。ルームメイトのサムと私は同じ日で、サムはとってもきれい好きだしせっかちな人だから清掃の日はさっさとプラクティスを終わらせて私が家につくころには「わたしたちのエリアはもうおわったから!」とかいうのだった。それだと申し訳ないのでそのうち外回りをサムが、フロアと階段を私がってことで落ち着いた。

インドの家屋の床は特に高級な作りの家ではなくとも大理石てつるつるなのだけれど、サムの住むバンコクでもそういうことは珍しくないらしく、「私はやり方をわかってるわ、こうするの」といって洗剤を少しいれた水にモップを浸して床を水浸しにするのだ。少なくとも、私にはそれは水浸しに見えた。でも、その水浸しが乾くとたしかにピカピカになるのだ。しかしぞうきんは固くしぼるもの、からぶき仕上げがなおよい、など、私の掃除の固定概念はサムのやり方を拒否した。かたくなに自分の方法できれいになることを示したかった。傍目にはモップをかけるよりも何倍も「ザ・そうじしてます」という姿が人々の目にやきつく方法で「君は本当に偉いね」とよく言われた。自分のやり方は確かにきれいになるけど、比べてみるとサムのやり方の方がきれいだった。でも、私は水浸しがどうしてもできなかった。乾くまでの間に誰かが通ったら台無しになるし、誰も来ない間にそれをすませられる自信もなかったし、なにより彼女のやり方より自分のやり方の方がまだスマートだと思ってた。なんということ(!)。ちなみに、同じ水浸しでもイギリス人の子がやると洗剤も入れ過ぎ、水浸し加減もひどくモップを当てた上を自分であるくものだから足あとがべたべたでまったく美しい仕上がりにはならないのだ。

今日、滞在先のスタジオの掃除をしてみた。タイルの床で掃除道具としてぞうきんはないけどモップがある。そこで試しにサム方式でやったらなんと、とても美しく仕上がった。簡単できれい。どういう仕組みなのかわからない。多めの水が床に触れて可の細かい砂がモップの繊維に吸い取られるのだろうか。とにかく乾燥したあとはピカピカだ。おもわずうっとりするほどだ。

私の掃除方法はおそらく木の床、畳などに適した方法である。幸田文が幸田露伴に掃除の仕方を教わる話があるのだけれど、私はそれを自分もまた露伴に教わったかのように心の奥底に刻んでいて水の扱いやら埃のとり方やらはそれを理想としてるところがある。(もちろんできてないが。)なにより、ぞうきんですみずみまでふくということは隅々まで手で触れるということで隅々まで至近距離で見つめて慈しむということでそれによってすべてを同等に大切に扱うという気持ちがあったのだと思う。モップで荒っぽく水浸しなんて愛情がないんじゃないか、と。しかし材質や気候が違えば知恵もまた違う。なにが愛情かってものその都度ちがう。愛情が最大限に発揮される方法ってのもその状況に応じて違う。愛情ってのはつまりある環境や状況において一番気持ちよい状態を的確な方法でつくるってことだ。