2009/06/19

今日(正確には昨日)はできごとから1年がたった日だった。
何もできないけれど、心の中で想った。
悲しいでもなく、つらいでもなく、想った。
一年前と今でも感触はかわらなくて、それは人の生が出来事になった瞬間だったんじゃないかな、と思うけれど、正しい描写じゃないな。なんといえばいいんだろう。


そんな今日。大学時代の友人が名古屋から出張できていて、帰る前に品川で食事をした。
さっと手帳のあいだから取り出されたのはエコー写真だった。8ミリの大きさの人の写真。
なんだかとにかく感動してうれしくてうれしくてたまらなかった。3人でそれぞれの思いがありつつ、心の底からおめでたいね、っていうのを共有した。共有できたのもうれしくてたまらなかった。私は来年の今日、またできごとを思い出すけれど、それには今日のことも一緒に思い出すことができる。彼女の死と、彼女の中の新しい生命。よくできた話すぎるけれど私はすくわれた。ほっとした。肩の力が本当にぬけた。


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年長の人というのは、それだけで偉いという風に考えている。
どんなに賢い人だって、経験による感触は時間の中でしか得られない。時間によるものごとの変容も。長く生きてるだけでどの人にも分け隔てなくいろんなことが起こり、それに対処しなけらばならない。知恵というのは対処したり、やりすごしたり、ということでしかつけられないんじゃないかと思う。

だから、ずっと年上の人と対等にしゃべっているつもりでも、やっぱりその人の言葉の背後にある経験に自分は達していないんだと思う。わかってくれない、と思うこともあるけどそれは間違ってて、わかってないのはこちらだ。知らないから知らないなりの理想しか見えずかたくなだったりもする。

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人を所有することはできない。

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プロフェッショナルと爆笑学問の間の番組で、永平寺の老師がでてた。
「死ぬのが恐くなくなるのが悟りではなく、平気で生きるのが悟りなんだ」と言っていた。
なんだか、すごいな。

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温度をじっくり感じる間もなくあせって今を未来の為に使ってしまうのは本当にもったいない。感覚の貯金はできないから、未来の為に使っているように見えるのは錯覚でなんにも感じてないのと一緒。