母と相談して明日は行かないことにした。
抗生剤を打つと熱がさがって危機を脱する。
じゃあ、抗生剤を打っても効かない時が死んじゃうときなの?
それは、くるしいんじゃないの?
死ぬ時はくるしくないといいよね。
でも熱がでてくるしくなったら抗生剤の処置をしてまた少し楽になって、死から遠ざかって、、どうなるんだろうね、
と、母と話した。
母は電話を切る時にありがとね、という。こないだもだった。そっか母にとってはこれはありがとねってことなんだ、私にとってはおばあちゃんの死は自分のこと、自分にとって大事なこと、もっといえば、自分の興味である。
興味。
ずっと言葉にしていいか迷ったけどそうなんだ。
私は生から死へ人が移り変わる様をみたことがなくて、それをみたいとおもっている。大切な瞬間としてそれを目撃したいとおもっている。自然現象のひとつとして、誕生の瞬間を見たいのと同じ様に死の瞬間をみたいのだ。
「海獣の子供」中では、遠くの海から魚たちが好奇心をもって「何か」を見にくる。
子供のころ、おばあちゃんがいずれ死んでしまうことを知ってどうし様もなく悲しくてベッドでしくしく泣いた時からおばあちゃんの死は私のなかにずっと埋め込まれている。
私は、見たいんだ。
おばあちゃん、そんな私でもいいですか。